弥生式土器時代の遺跡

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長柄町の弥生式時代の住居址は、発見されていないが土器は若干発見せられている。全般的に時代が新しいにもかかわらず、弥生式の住居址の発見数が少いのは、その遺跡が繩文時代の貝塚の様に、容易に発見しにくいこと、また発掘者が壺・鉢のような造形物に惹かれて、考古学的にその地を探査しようとしなかったのが、大きな原因であろうが、長富・鴇谷東部(宮畑の周辺)徳増などの平地帯から若干発見されている。朱で採色されて壺形・鉢形のものが見られるが、管見ではかつて昭和十年ごろに、鴇谷(原田)から立鳥(東谷)に行く途中の道路工事の際、相当量の破片を採集したことがあるが、低い丘陵が長くつき出たこの地の東南側など、住居として適地であったろうと思われる。しかし住居址は不明である。
 なお長柄山台地の追分附近から、中期の須和田式土器がこのたびの調査で見出されている。須和田は市川市にあって関東ではもっとも古い弥生式土器といわれており、杉原荘介氏の調査したものである。一般に稲作を伴うものであるから、弥生式土器や遺跡は平地にあるのが普通で、有名な板付(福岡県)・田能(兵庫県)・唐古(奈良県)・登呂(静岡県)および、千葉県でも前記の須和田や田子台(鋸南町)菅生(すごう)(木更津市)遺跡など、水田適性地附近の台上であるが、この追分のような高台からの、この発見土器は何を意味するのであろうか。あるいは谷間の現在の水田となっている部分は当時すでに同じように水田となったのであろうか。ともあれ、繩文から弥生文化への謎を解く鍵は、この長柄山台地の遺跡群にあると思われ将来の調査を期待したい。
 また長柄町に住んでいる町民の方々の、一片の土器片あるいは鉢・壺などの土器への関心をお願したいと思う。この地には必ず弥生式土器を使用した、これこそ私たちの直接の先祖と、考えてもよい人たちの住居址が存在する筈である。

(1)相沢忠洋『岩宿の発見』青年学校卒の青年が、不運な家庭と激動する社会の荒波のなかで、歴史にのこる大きな発見をした経過が、この書に語られている。若い人たちは是非一読してほしい本である。
(2)斎藤忠『日本人の祖先』九六頁による。
(3)樋口隆康『日本はどこから来たか』(昭和四六刊)より取意。
(4)「日本の考古学」第二巻河出書房刊『繩文時代』所収による。
(5)『長南町史』に江沢半氏の調査地点が報告せられている。
(6)藤森栄一氏は、長野八ケ岳山麓の中期の遺跡・遺物から、焼畑陸耕という、新しい生産形態の存在を予想している。『繩文の世界』その他。
(7)内田邦彦氏が、かつて雑誌「考古界」に報告せられているというも未見。
(8)このような石器時代人は、今の日本人の基礎をなしているとする見解は、昭和初年の清野謙次博士の、貝塚出土の人骨の全国的な調査により提唱され、また人間の骨格は、環境と食物の変化などにより、変化するものであることも、その後実証されて来ている。入手しやすい本に、鈴木尚『骨―日本人の祖先はよみがえる―』『日本人の骨』がある。
(9)斎藤忠『日本人の祖先』による。
(10)江上波夫博士の提唱は昭和二二年であった。