村の成立

61 ~ 62 / 699ページ
繩文時代の貝塚から、明らかに埋葬された形で、まとまって発掘されているから、人が死んだ時に住居に近い、ある一定の場所に埋葬したことは推測され、弥生時代となっても土中に遺骸をおさめ、土を盛りあげるような事はあったであろうが、大きな墓がつくられた痕跡はない。しかし弥生時代の稲作りが次第に盛んとなるにつれて、大きな墓がつくられるようになった。これは何故であろうか。今までの獲物を追い移動しなければならなかった生活が、水田に近い低地に住居を定めて、そこに落つくようになると、多くの人の集りである集落が出来上る。これが「むら」(群すなわち多くの人の集り)である。
 しかしこの稲づくりは耕地をつくり、灌漑の便をはかるなど非常な労苦を伴うばかりでなく、不意におそう気候の激変によって、収獲が皆無になることもあれば、虫害で大損害を受けることもある。個々のばらばらの行動では対応することは出来ない。どうしても共同の力が必要とされる。このような集団生活をするとなれば経験の豊かな人、周囲の状況の変化に対して、その対策を速かに立て得る指導者が必要となってくる。そうしてすぐれた指導者のもつ「むら」は栄え、有力者が生まれてくる。
 もちろん繩文時代からこのような、指導的立場に立つ者は必ずあったであろうが、稲作の発展は大きな「むら」をつくり、その中心である指導者の力は、今までとはくらべものにならない程強力となり、その有力者の死に際しては、その墓は一般人とは異なり大きな立派なものとなって行く。これは死後も、現世と同じような生活を続けて行くという信仰からであるが、このように死者の埋葬に際して、その生前の力に相応する、大きな塚をつくる風習の始まったのは、弥生時代のおわり農業生産が高まり、相当規模の大きな集落の成立したころからであり、このような大きな墓をつくる風習の流行した時代を、考古学では古墳時代とよぶ。
 こうした個々の「むら」は、利害によって協力関係をもつ事もあったし、あるいは対立する事もあったろうが、各むらにむら長があり、さらにそのいくつかのむらを支配する、豪族とみなされるものが生じ、次第に大きな強力な地域ごとのまとまりを見せて行く。このある地域が一つにまとまって団結をしたのがくにである。一世紀のころ日本は沢山の国が出来た。五、六〇人から一〇〇人ぐらいが一つのむらであり、このむらがいくつか集まった程度であろうが、そこには支配階級があり、小さな原始の共同体はくずれていった。