大和朝廷の成立

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斎藤忠博士は、もし大和統一国家成立の事情を、思いきって大胆に考えると、次のようにいうことができようといわれ、北九州説をとって、卑弥呼死後の一〇〇年の経過を、次のように推測せられている。
  「三世紀の後半、女王卑弥呼の世継ぎとして、女王台与が位につき、いったん平和がきた邪馬台国は、台与の死とともにふたたび動乱の世となった。当時大和の国は魏志倭人伝に「邪馬台国の東海をわたって千余里また国あり」と書かれたその国であり、大和の地を中心にしだいに勢力を拡大していた。この強い勢力は次々に周辺の豪族を配下におさめ、ついに動乱で結束の弱まった北九州一帯の地域をも、その支配下におくようになった。それは征服という形ではなかった。背景に武力はあっただろうが、むしろ主として話し合いを通じてなされた。
  したがって九州の有力者たちの中には、進んで大和入りをしたものもあった。こうした状況は、九州ばかりでなく各地で起こる。各地方の豪族たちが大和の地に居をうつし、新しい国づくりに協力した。かれらの生活の拠点は、やはりそれぞれの所有地であった。当時大陸からは、この大和勢力を援護する、文化―武器や武具あるいは、生産技術が盛んに入ってきていた。そうして統一国家ができたとき、かれら豪族連合の中から、大王とよぶ主権者が立てられた。つまり御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)―崇神天皇である。このように考えたとき、では神武天皇東征の伝承は、どのように解したらよいか、それはこうであろう。この統一国家形成の実力者の中に、九州出身の人々がいた。かれらは平和のうちに畿内に入っても兵をひきいて戦いながら大和に入った」という、誇張した困難と武勇の物語をつくり、かれらの子孫に伝えた。日向がなぜその発生地とされたかについては、五世紀ごろの日向が、経済的にあるいは文化的に、大きな力を持っていたことと関係があるかもしれない。ともあれ日本は四世紀の半ばで、群立していた小国家が一応統一された。日本史上の重要な時期に入ったのだ」(2)
 坂本太郎博士は、同じく九州説をとりながら、邪馬台国が東遷して、畿内大和に都を作ったのではないかとされている。
  「邪馬台国では、女王卑弥呼が栄えた時期は三世紀だから、それ以後に東遷したとすると、そろそろ大和統一国家が成立した、四世紀の初めに近くなる。そこでわたしはむしろ卑弥呼より、前の二世紀のころ「倭人の国が乱れ国々の攻防があいついだ」(倭人伝)時か、その少し前のころに邪馬台国の一部族が、東に新天地を求めてうつった、と見てはどうかと思う」(3)
 といわれ神武天皇東征伝説の成立背景には、この様な事情があったかも知れぬとされているが、ともあれ大和朝廷の基礎は、四世紀半ばのころつくられ、崇神天皇・垂仁天皇の次の景行天皇の時となると、この大和朝廷の力が強くなり、東西に遠征したという神話が、『古事記』、『日本書紀』にこまごまと語られている。特に景行天皇については、西に熊襲を討ち九州地方を平定し、東に向って蝦夷(えみし)を従え、皇子たちは地方に派遣せられて、各地の豪族となったと語られており、この御子のヤマトタケルノミコトの伝承が、この長柄にも残っている。そのことを次に考えて見たい。