景行天皇の御子、ヤマトタケルノミコトは『古事記』には倭建命とあり、『日本書紀』では日本武尊と記し、また両書ともその記述するところは、細部になると必ずしも一致していない。天皇の命をうけて熊襲を九州に討ち、吉備(岡山県)出雲(島根)を征し帰ってくると、東国の遠征に出発する時『日本書紀』によると景行天皇の四十年冬十月、まず伊勢に至り倭姫命より剣と袋を授かり、さらに駿河に進んだ時、そこの国造が野原にさそいこみ、火を付けて焼き殺そうとする。倭姫命から授かった袋をあけると、中に火打ち石があったので、刀で草をなぎはらい火をつけると、火は逆に燃えひろがって賊を滅してしまう。
今もその地を焼津というと、草薙剣の名称の由来が語られている。さらに進んで相模を経て上総に渡ろうとした時、海を望んでこれは少いさい海だ。立跳(馳けてとぶこと)でも渡れると言って、渡ろうとして海の中ごろに至ると、暴風が起こり船は進まない。その時ミコトに従う穂積氏忍山宿弥(おしやますくね)の娘、弟橘媛がこれは海神の心であろう。身代りになりましょうといって海に入られたので、暴風はやみ船は無事に着いた。その故に時の人はその海を馳水(はしるみず)といった。
尊はさらに上総より陸奥国に至り、蝦夷を平げ日高見国より帰り、常陸を経て甲斐に至り、さらに武蔵・上野をめぐり、碓日坂に到り信濃を経て尾張にかえられ、しばらく後に近江の胆吹山に荒神があると聞き、そこで夭気に当り発病したが無理をして尾張に帰り、さらに伊勢の能褒(のぼ)野でなくなられた。時に三十才である。
そこで陵に葬られたがミコトは白鳥となり、陵より出でて倭国を指して飛び、そのおりた大和の琴弾原にまた陵を作った。そこからまた白鳥となって飛び立ったので、再びその降りたところの河内の旧市邑に陵を作った。この三つの陵を白鳥陵という。然しそこからも白鳥は高く翔んで天に上った。そこで功名(みな)を伝えようと武部(たけるべ)を定めた。
以上が『日本書紀』の伝えるところだが古事記との差異は、煩をおそれていまは触れない。