このヤマトタケルは、もともと大和地方の勇者を意味するのであるが、御名を伝えようとして設置したと伝える。タケルベは東は常陸から、南は薩摩に至る地域の軍事上の要地にあり一種の軍団であり、朝廷から各地方鎮撫の為に置かれたらしく、ヤマトタケルの西討東征の物語は、このタケルベの地方征略の史実が反映し、多くの遠征軍が四世紀から五世紀ごろにかけて、各地で長い間に経験した数多くの出来ごとが、一人の英雄のすぐれた業績として、まとめあげられたのではなかろうかといわれており、現在の形にまとめあげられた時期は、六世紀後半ともされている。(4)『日本書紀』『古事記』共に上総に上陸された後、常陸に向われた経路について何も語っていない。
しかし上総の中央部には非常に数多く、ヤマトタケルノミコトに関連する伝説地が遺っている。房総地方におけるミコトの伝説地については、堀一郎・川村優・平野馨などの諸先学の調査がある。(5)平野馨氏は君津郡を中心に多くの伝説を集め、多方面から考察せられた『房総のやまとたける』の「あとがき」で、次のように言われている事は注目すべきであろう。
「西上総に伝わる日本武尊伝説について民俗学的な立場から冗筆を以て考察を試みて来た。その結果として全くの付会に過ぎないものと、付会ではあってもその中に古代的感覚とか信仰の祕んでいるもの、或る場合には記紀から輸入したものなどのあることがわかった。そして更にもう一つ、全体を通観してもっと古代の事実に近い面もあることが明らかになった。例えば相模と上総の間の航路や、東京湾から太平洋岸への陸路の道順などである。そして又大和朝廷から武勇優れた武将が派遣されて、この地に遠征して来たというのは恐らく事実であろう。勿論一回限り一人の英雄ではない。記紀によってみても大和勢力の東方経路は長期にわたって非常に多い。
即ち神代の香取・鹿島をはじめ、天津彦根命(馬来由・須恵の国造の祖)・天穂日命や、神武時代の天富命、崇神時代四道将軍の一人武渟川別命の東国派遣であり、豊城入彦命の上下毛陸奥征圧・武内宿禰の東北巡察などがある。そして日本武尊の東征となるがその後にも景行天皇東巡・彦狹島王・御諸別王の派遣、清寧時代の巡察、宍人臣鴈・田村麻呂の東征などがある。このような記載に示されている度重なる東国征服の過程における種々な印象が、この地方では日本武尊に集約されたものとみられる。従って上総には記紀の日本武尊よりもはるかに拡大された事跡が止められているのである。――(略)―― 私達の先祖は自分らの持っている苦楽と哀歓の歴史を開拓の物語りを、そして信仰などをそれぞれ日本武尊の事蹟と結びつけて語り伝え育てて来たのであった。伝説には確かに付会したものが多いが、その伝説のヒロインには民衆の悲願が、そして或時は憧憬がこめられている。伝説の主人公は民衆の代表者である。そこに人間らしい素朴さの一面を認めうるのである。
私は伝説を解剖し放しでなく、次の段階として伝説を組み立て伝えていった民衆の、みずみずしい豊かなる感覚とエネルギーを、正当に評価しなければならないと思っている」
すなわちこの伝説地や、ミコトの通られたと伝える道筋は現実の一人の足跡ではなく、東方に進出した大和朝廷の勢力拡張の進展のあとと、考えなければならないのだが、この長柄にもミコトの東征にまつわる古い伝承が残っている。