それは武峰神社の黒須家にのこる、古系図と同じ神社の縁起『羽黒山大権現縁起』である。縁起は全文を『研究篇』所収の「長柄寺社縁起集」に、翻刻紹介してあるが、ヤマトタケルに関する部分を要約し、原文は難読であるので、一部を訓み下し文にすると次の如くである。
一、日本武尊は鹿野山の阿久留王を討ち、安房国の軍勢を引きつれ山の方に向うと、畏み参向した老人があった。誰かと問うと私は饒速日尊の孫、山座王と言って五百年あまり此の地に居る者だが、尊の平定の道案内をするために待っていたと申上げた(要約)
二、尊悦び給う、時に山の中に数万の黒烏居て羽を休む。武尊是は羽黒山なりと宣たまう。亦山座王の家に入給えば黒樔屋(くろすや)なり。是は黒巣と宣いたまう。故にこの黒巣の山座王大御酒をかもして献ず。ここに於て武尊この献れる大御酒によひ給いて御歌に曰く。
やまくらがかみけむみきにわれよいぬくろすがもりてわれよいにけり
これによって羽黒山の名、黒巣の名起れり。黒巣の山座王は身の長一丈二寸、竜顔鳳目にしてひげの長さ二尺五寸、御前に立たして軍兵を引き連れ、羽黒山の頂に登らせ給いて詠覧あるに、四方の山々累々として海河につらなり、松柏森々として霞を貫き、富士の高根・秩父の嶽・二荒・筑波山陸奥の山々を見渡し、東は荒浪の海上万里漂々たり。磯うつ浪は白々と布を引けるに異ならず。尊此峰に逍遙し給い、猶も木更津の海原を空しく臨ませ給い御歌に、
かくばかりうき世の中としらなみのそこはかなくもかえるあがつま
しばらく此山にて大御食(みけ)を献る。亦山の沢なる水をもって大御酒をかもし献る。後に此の水元に御井の神を祭る。武尊は此の山に於て山河の荒神(すさぶるかみ)など平げ和げ、また荒ぶる夷を言(こと)向け給う時に、山座老人弓を持ちて矢を放つ時、八尋の蛇にあたれり是をひしぎて捧る。此の建荒(たけすさぶる)を以って、建連大人(たけるむらじうし)と宣い賜う。その矢指の処を矢刺とは云也。武尊多勢の軍兵此山に集し故に、武賀兵(たけるがひょう)と申す。亦峰山なれば武ケ峰という也。武尊お成り有る故に里の号を成武(なるたけ)とはいえり。尊羽黒山と宣い賜えば、羽黒山にまします武の大神と祭り奉る(以上、訓み下し文)
三、そこで後の人は羽黒大権現と称し、また尊が弟橘姫命を恋されたその志を察して、尊が大日霊大神(天照大神)を拝した峰に双の宮として、日霊大神と橘姫命を合祀して姫宮大明神と称し、山座王の陵は座王神霊と称し、また此里に田畑を開いたので、牛馬を守り火災を鎮める為に、豊受気大神を祭り、後世は稲荷大明神と称した。また武尊の荒魂が怒られ山中が荒れたので、山守大人が尊の御子六柱をまつり、また山の頂きに大山祗の神や、山中の霊気を祭ったところ、崇がなく荒ぶることが止んだ。(要約)
以上に記したあとに、ヤマトタケルの各地の御討伐の跡をたどり、さらに後代平秀胤が御宮を修覆したこと、毎年の祭礼は九月八日より十日であることをのべ、尊を信仰の輩は武運増長・五穀豊熟・火盗畜虫・剣難および、悪魔を降伏せしめることが出来ると説き、永仁三年(一二九五)寛正元年(一四六〇)の年記が続いている。しかしこの年記にこの縁起が出来たのではなく、別にある『黒須家系図』にある年号を、そのまま転記したものであり、この内容は系図によりながらも、はるか後の近世末期に口碑を混入して記述したものである。
地名の起原も説明しているが、この山を兵(ひょう)とよぶ理由が、軍兵を集めたところと説くのは、本来の「ひょう」という言葉が、山の嶺または峠をいう古語である事が、不明になってからの説明であり、また権現とは仏が権に現われるという意味で、平安末期以後盛んになった、本地垂跡説のことばである。今も此の山を「権現森」とよぶのは、中世の文明八年(一四七六)に黒須兼伴が勧請した以後と推測されるが、その名称をヤマトタケルの命名として権威づけたのであろう。