また三六代の真佐根に注して「世々県主ト名乗ル」とあるのも、興味ある記載であろう。系図にはこの県主の子孫と数回記している。この県主(あがたぬし)は大化の改新以前の、県とよばれている地域の首長のことをいうのであり、国造の下に属するといわれて来たが、その実態はなお不明で、最近は国とよばれるものよりも領域が小さく、国よりも古く成立していて、大和政権成立に際しては、国よりも早く支配の対象となり、かつ古い祭政一致権力の中から、政治は中央政権にゆだねた後も祭祀性は後まで残っており、はじめ(三世紀から五世紀)は、国造と同じような独立国家の首長であったが、後(六・七世紀)には国造の下に属するようになったといわれている。(6)
この地方の小首長が、大和政権の東漸にしたがって、その支配下に属して行く過程を背景において考えて見ると、この長柄にのこる古い伝承も、架空のまったく虚構な伝説ではなく、ある程度は事実の反映ではないかとおもわれる。すなわち大和からいち早く三世紀のころに、東方に進出した数多いヤマトタケルの一人がヤマクラノ王で、後から再びこの地に来た大和政権の代表者に帰伏し、県主として任命せられたその経移が、この黒須家古系図の語るところではなかろうかと私は思う。なおヤマクラの名は、ほど近い市原市山倉と関係があるのではなかろうか。山倉には長径一〇〇米にもおよぶ、前方後円墳のほか古墳の多い所で、それに対して権現森周辺には古墳がまだ見出されていない。また四代目の田見大人の妻矢立比売は、上海上造の女であるという註記を考えると、あるいは山座王の本拠は、この山倉の地かとも推測される。ともあれこの長柄にも、遠い昔の大和政権の東方進出の痕跡が、ヤマトタケルの伝承として残っている事は興味深いことであろう。