房総の古墳と国造

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古墳は大和政権の東漸のあとを示すものであり、その地の豪族の成立した年代と共に、その力の表現でもありまた古代文化の進展の程度を示すものともいえるであろう。この長柄にはその古墳がほとんど見当らない。実は存在するのであるが、それに気づかずに、今日に至ったというのが実状であるが、ともあれ注目されるような古墳はなく、僅かに東北部の上野に数ケの円墳があるが、その年代の手掛りとすべきものがない。古墳時代とよばれる時期は、三世紀末から七世紀の大化改新までを言い、前期(四世紀ごろ)・中期(五世紀が中心)・後期(六世紀が中心)に区分する。
 ヤマトタケルの遠征物語が示すように、東方に進出する力によって数十にもおよぶ、小国家が中央に服属するようになると、概ねその首長を国造や県主に任命して吸収して行ったが、この国造のおかれた地は全国で約一四〇。(7)そのうち関東には二五、房総にはその半数に近い一一が置かれている。これはこの房総が早くから開発せられたことを語っている。『日本書紀』によれば、ヤマトタケルの東征後の成務天皇の時から、諸国に国造をおき山河を境にして国・県を分け、邑里を定めたという。房総の地におかれた国造の名と、その推定地域は次の通りである。
 1 印波国造(インバノクニノミヤツコ)              印旛郡
 2 下海上国造(シセツウナカミノクニノミヤツコ)         海上郡
 3 千葉国造(チバノクニノミヤツコ)             千葉市附近
 4 武射国造(ムサノクニノミヤツコ)             武山郡北部
 5 菊間国造(ククマノクニノミヤツコ)            市原市菊間
 6 上海上国造(カミツウナカミノクニノミヤツコ)    市原市姉ケ崎附近
 7 馬来田国造(マクタノクニノミヤツコ)           小櫃川流域
 8 須恵国造(スエノクニクミヤツコ)             富津町附近
 9 伊甚国造(イジミノクニノミヤツコ)              夷隅郡
 10 長狹国造(ナガサノクニノミヤツコ)              安房郡
 11 阿波国造(アワノクニノミヤツコ)             館山市附近

国造の配置

 諸豪族が大和朝廷に服属し、世襲するに至ると姓を授けられ、次第に秩序づけられて行って、各氏の尊卑の程度を現わすようになったが、これは大化改新により制度としては廃止されたが、氏・姓はその後も重んぜられた。その姓は時代によって地位が変わり、その名称も数十にも及ぶというが、主なものは臣・連・宿禰・造・君・直・首などであるが、前掲の国造のうち、1・2・3・5・6・9・11の七国造は直(あたい)の姓をもち、4・7・8は上級の臣(おみ)を賜っている。
 10の長狹国造の姓は明らかでない。
 これらの国造の置かれた地域は現在も古墳が多く、特に市原市の養老川北岸の菊間・上海上の両国造のおかれた地には、径三〇米以上のものがいくつもあり、なかには潤井戸の杉山古墳は八〇米、姉ケ崎の天神山古墳は一二五米、山倉の棒坂古墳は一〇〇米などの、前方後円墳があり、(8)多くの人力を動員することの出来た、その地の豪族の力がうかがえる。