しかしこの長柄をふくめて、長生郡にはこれらにくらべ得る古墳はほとんどなく、わずかに能満寺古墳(七三米)が、前期に属する古墳である事が報告せられている。なお『長南町史』によれば、米満の豊栄神社境内や久原、芝原などに埴輪を伴う前方後円墳や、地引・市野々・岩撫・長南などで、円墳がある事が知られる。しかし東京湾沿岸にくらべると、全般的に少いしかつ貧弱であることは否定出来ない。ではこの長柄には全くないのであろうか。
昭和五一年に横穴調査中の学生によって、徳増の要害(これは中世の山城あとであろう)の丘陵上に、主軸の長さ約二五米ほどの前方後円墳と、その周辺に陪塚と推測される、円墳が二つほど発見された。いまひとつそれと並んだ眺望のよい丘の上に、これも前方後円墳ではないかと推測されるものがあったが、これは数年前に削りとられてしまい、その出土品も持ち去られてしまった。これらを斎藤忠博士は、六世紀のころと推測せられている。(研究篇参照)
また昭和二二年ごろ桜谷の町庁舎裏で、炭がま築造中に埴輪が発見されたという。現在は円筒埴輪の断片一箇が、公民館に保存せられているのみだが、一般に初期古墳は丘陵上に築造され、時代が降ると平地につくられるという。丘陵上の場合はその上が林になると、全くかくされてその所在が判らなくなるが、まだこの長柄地域からは、古墳が将来発見される可能性がある。特に岬のように平地につき出でた高台で、そこに神社がまつられている様なところは、一応古墳ではないかと疑うべきであろうが、ともあれこの古墳があまり営造せられなかったということおよび、国造が任命せられなかったということは、この地に強力な首長がいなかったことを語るものであろうか。このことはまた養老川・小櫃川沿いのような広い平地がなく、地質に原因する複雑な地形が、多くのムラを統一する勢力の成立することを阻害して来たことにもよるものと考えられる。