長柄首

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長柄の地名の起源については、管見では邨岡良弼(香取郡出身)の『日本地理志料』に、
  「按ずるに上野の長柄郷同訓。器皿部に柄は器物の茎柯なり。和名衣(え)。一に云く賀良。柯は斧なり。毛詩加良と訓ずと。姓氏録に長柄の首(おびと)は、八重事代主命の後と。日本紀を按ずるに事代主、国を皇孫に献じ、臣節を致して去る。其適く所を知らず。実に伊豆の神島に避く。いわゆる三島神是也と。知るべし其裔此に居り、因って名づけしを。」(原漢文)
 とあって、長柄首の地なる故にこの名が出たと推測している。この『姓氏録』は『新撰姓氏録』のことで、古代の畿内諸氏の系譜を集成した書。弘仁六年(八一五)の成立だが、現存本は抄録(ぬきがき)である。その第一七巻に「長柄首 天乃八重事代主神之後也」とある。この連関を指摘したものとして、『大日本地名辞書』も上野(群馬県)の長柄郷の項に、「姓氏録に、長柄首あれば、彼姓氏に因む所あるか、詳ならず」と記している。まったく他によるべきものはないが、この大和の長柄首は事代主神の後裔であるという。
 神話ではこの事代主神は大国主神の子で、いち早く大和朝廷に帰順した神として有名である。その裔と名のるものが東方に進出して早く上野に、あるいはこの房総の地に至って、この地を開いたのではなかろうか。首(おびと)は前にものべたように姓の上では、国造などの臣(おみ)あるいは直(あたい)より下級である。県主は文献では美濃(岐阜)より西の地にあるのみであるが、当然東国にもあった筈で県主には首が多い。ここでおもい起すのは前掲の『黒須家系図』に、見える県主と世々称したという伝承である。
 またその系譜は、物部氏とその祖を同じくしているのであり、大和の長柄はこの物部氏と密接であったらしい。長柄の地名はこの大和の長柄首と、同族の祖先がいち早くこの地の開発に従い、その痕跡が『黒須家系図』に、のこっているのではなかろうか。現在も地名ののこる国府里(こうり)は郡であって、古く律令制度下の郡家(ぐんけ)の所在地であろうが、私はこの地に長柄首が県主となり、さらには郡家となって、この長柄郡の呼称が生じたのではないかという一つの推測をここに提出しておきたい。