大きな古墳が前述のように、あまり営造されなかったこの地に、やはり墳墓である横穴古墳群が非常に多い。従来も若干の注目を集めていたのであるが、徳増の横穴群が高橋三男氏によって、調査報告せられたのみで、その後上智大学の調査があり、一部の存在は判明していた。昭和五〇年斎藤忠博士が来町せられて、その内部構造に特色があること、その数の多いこと、注目すべき壁画のあることなどの御指摘をいただいた。そこで町史の資料としての調査をお願したところ御快諾を頂いた。博士がまったく無償で長期にわたり、熱心に御調査せられた結果、二五群三三〇にもおよぶ長柄町の横穴の全貌を明らかとせられ、その研究結果の御寄稿(研究篇参照)を頂いたことにまず厚く御礼申上げたい。
土地の古老は、むかし火の雨が降った時にこの中でくらしたあとで、爐のあとがあると伝えて来たが、この爐のあとというのは実は死者の棺台で古墳であったのである。全国的に見て北は宮城・福島県から、南は九州まで散布している。(11)それらの中でこの長柄町の横穴について、斎藤忠博士は次の如く言われている。
羨道(入り口)から、玄室(棺のおかれた奥の室)に入るところには高壇があり、これは高さ二メートル前後のもので、あたかも直立する壁のようにさえぎっていた。この称の構造のものは上総地方でかなり紹介されているが、高壇式ともいうべきこの施設は、日本全国の横穴の中でも全く特異なものであり、これまでこの点の評価は十分でなかったようである。―略―私がこれまで見てまわった全国の横穴の中でも、このようなすばらしい構造のものが、群をなして存する例はないようである。(12)
この横穴群の諸相については、「研究篇」の斎藤忠博士の報告を参照して頂きたいが、この横穴はおよそ七世紀後半から八世紀前半へかけて、およそ一世紀の間の営造と考えられるといわれている。またその営造者は相当富裕な農民であったと推測し、まったく文献はないが東上総における屯倉(みやけ)の問題、刑部の部民の存在なども歴史的に考慮し、横穴の被葬者たちとの関連性を、もとめ得るかも知れないとも言われている。
この長柄についての歴史をたどる時、全く文献はなく、若干の伝承があるのみだが、しかしこの横穴の背景については、ほとんどたどるすべがない。