鴇東横穴の一つに見られる、巨大な蛇はおよそ三メートルにもおよび、その上に人が乗っている壁画は、精査の後、斎藤忠博士は築造当時ではなく、やや時代が降るのではないかといわれたが、古代において水田耕作に際し、まず谷の間を開墾したのであろうが、その際の蛇の害が多く、神にまつって夜刀神(やとうのかみ)としたことは、『常陸風土記』にも見えるが、そのころの生活と信仰が察せられるし、それに隣接する横穴の壁画の鳥は、おそらくは従来の同類のもので最大ではないかと言われたが、稚拙ではあるが鶴ではない。
私はかつてこの地に多く住み地名ともなった、鴇の姿に類似しているかに感ぜられた。また徳増の源六谷の壁面には狩をする人物と狼(?)があり、さかさになった人物もある。しかし直接には此を造った人たちの、いかなる人であったかを私たちはたどり得ないが、少くともこのころここに住んでいた人たちが、刑部の部民(べのたみ)であったといえるかと思う。このことについてしばらく考えて見たいが、まず当時の行政区劃についてふれ、旧長柄郡の郷のことをのべて見たい。