国郡の設置

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地名は長い年月に耐えて残るといわれ、その残存率は千年で九〇パーセントとされているが、この刑部の地名も、少くも千年の歴史をかたる地名であろう。『和名抄』に長柄郡に六郷の名を記したうちに、まずあげられているのが刑部である。しかしこの郷の設置はさらにさかのぼるであろう。大化二年(六四六)改新の詔によって、全国は七道に分けられ国・郡を定め、各々に国司・郡司を置くこととなった。この郡は明治になってから復活したがほぼ古代のそれとひとしい。房総の地は東海道に属し、フサ(総)の国とよばれた地域が、上総(カミツフサ)・下郷(シモツフサ)と分けられたが、これは都に近い方を上としたのであって、当時は海路・相模に通ずる交通路が、主であったことを語っている。安房ははじめは上総に属していたが、後(七一八)独立しまた(七四一)合併せられ、天平宝字元年(七五七)再び独立して一国となった。
 中央から派遣された国司は任期六年とされたが後に四年となった。国の課戸の多少によって大・上・中・下の四等級があり、守・介・掾・目が置かれた。上総は大国であったが天長三年(八二三)以後、上総は常陸・上野と共に親王が守に任ぜられ大守と称し、赴任しないことになり介が在国して代行した。国守の役所は国府というが、上総の国府は現在の市原市にあり、旧市原村・郡本村・能満村・惣社村、または養老川の南岸旧海上村あたりと諸説があるが、(13)ともあれ養老川下流の交通の要地におかれていた。郡司は前にのべたごとく、在地の豪族の旧国造などが任命せられたが、これは国司と異って終身官でしかも世襲であったが、その制度のこまかな点は時代と共に変って行き、平安中期以降は有名無実となった。その政庁を郡家といい、『日本書記』や『常陸風土記』では、こほり・こほりのみやけなどと訓み、後にはぐうけと訓んだ。
 現在の国府里がおそらくは、長柄郡の郡家の所在地であろう。この郡の下に里が置かれたが、霊亀元年(七一五)ころより郷と改称し、その下に里が置かれるように変わり、郷のもとに三里前後がおかれたが、天平一一年(七三九)ごろ里は廃止され郷が行政組織の末端となり、中世末の太閣検地まで続くこととなった。一里は五〇戸が原則で、二里以上二〇里以下を一郷となし、数郷を一国とした。里は二・三の村落をふくむらしいといわれている。