刑部と書いて、オサカベとよむのは普通では困難であるが、後述のように全国的に同一の地名が多いが、それは何故であろうか。『日本書紀』『古事記』によれば、これは允恭天皇の皇后忍坂大中姫の為に設けた名代であるという。『日本書紀』(巻一二)によれば、反正天皇薨じて同母弟允恭天皇は、病の故をもって固辞して帝位につかなかった。十二ケ月の後妃の忍坂大中姫が、親ら手洗の水をもって皇子の前に進み、帝位につく事を勧めたが、皇子は背を向けて口をきかなかった。四(よとき)・五尅(いつとき)を経て、姫の捧げた鋺(まり)の水が、腕に氷って死なんとした時皇子は顧みておどろき、扶けおこして帝位につく事を承諾した。即位二年二月十四日、姫を皇后としてこの日に皇后の為に、刑部を定めたことを記している。
この姫はかつて母の家にある時、垣の外から声をかけた無礼な行のあった国造を、皇后となった後殺さんとしたが、その国造が謝罪したので姓(かばね)を貶(おと)したという話や、妹の衣通姫を夫の天皇が愛したことを憤って、自ら産屋(うぶや)に火をつけて死なうとした話もあって、内助の功もあったが気性のはげしい女性であったらしい。『古事記』(中巻)には御名代(おなしろ)として刑部を定めたとある。刑部をオサカベと訓むいわれについて、本居宣長は『古事記伝』で、「忍坂部の人等の、刑部の職に仕奉りしことのありしより、やがて其職名の字を書ならえるなり。されば於佐加弁と云名は、忍坂部にて刑部職には由あるに非ず」という説(14)と、皇后の名のおしさかべに対するあて字とする説もある。
ここに部を定むとある部とは、大化改新以前の社会で朝廷や豪族が、個々に所有していた人民の集団で、農民・漁民・特殊な職業者たちからなり、豪族の名・地名・職能名をつけてよばれ、豪族に所属するものは部民とよばれ、伴造とよばれる中小豪族に率いられて朝廷に奉仕した。天皇・后妃・皇子の名を帯びた部は、皇族の名を後代に残すために置いたというのが、通説であるがなお諸説があって(15)定説はない。ではこのように中央の文献に記された名代の刑部が、どうして房総の長柄に地名として残っているのであろうか。
ちなみに『万葉集』巻二十には、天平勝宝七年(七五五)二月防人(さきもり)として、遠い九州の辺境に防備の為、動員せられた人々の一〇二首のせられているが、その中に刑部直三野および刑部直千国の歌がある。刑部とあるところからこれを現在の刑部の出身と、早計に考えた人もかつてあるが、刑部直千国は明らかに市原郡とあって異なる。刑部直三野は上総であるが、出身地は不明で他の防人の様な郡名の記述はないが、従前の国文関係の万葉注釈は誤りで、防人の指導者格の一人であって、国府関係者であり市原郡の人であろう。(16)市原郡には宝亀四年(七七三)江田郷に刑部稲麻呂・刑部荒人があり、(17)海部郷に刑部小黒人がある(18)など、刑部を名のるものが多い。また上総以外でも、遠江・駿河・武蔵・下総・信濃などにも多い。
このような八世紀を中心として刑部という名代に、ゆかりのある人名をもつ人がいるということは、各地に実際にこの部が設立せられたという、伝承を認めるべきであろう。ともあれ長柄町刑部は残念ながら、『万葉集』に作品をのこした防人歌の作者とは、直接に結びつかないが、(19)五世紀のなかば以降に、この房総の地に大和朝廷の力がおよび、(20)刑部という部民が居住していた為にこの地名となって残り、現在に至ったことは明らかであろう。