『長南町史』によれば現在の長南町全域で、三三七の横穴があるという。面積比を考えれば長柄地区の方が、密集しているが共に地形も谷が多く似ており、地質は笠森層と長南層の名のごとく、若干の差異はあるが共に横穴営造に適している。谷が長いがここはおそらく現在と同じく水田がいとなまれ、その谷をかこむ丘の斜面は急で、しかもその丘上は馬の背のごとく、ほとんど古墳を築く余地が少い場合、横穴という型式が行われた時には、これが急速に採用せられたことは、斎藤博士の推測せられた通りであろう。中央の大和勢力の東漸は、当然すぐれた鉄文化をもたらした筈で、オサカベや隣接したクルマモチベの人たちがきずいた横穴には、明らかに鉄製工具が予想される。後に中世篇において述べるごとく、くだって鎌倉中期以降は刑部を中心に、すぐれた鍛冶生産が行われたが、さかのぼって八世紀のころはどうであろうか。鴇谷東部横穴古墳群の近くに、宮畑と称する所からかつて多量の鉄滓が出たというが、今は開墾せられて見出すことが出来ないが、今後の私たちこの地に住むものの課題としなければなるまい。
註
(1)邪馬台国については多くの著書論文が多いが、佐伯有清『研究史邪馬台国』、石井良助・井上光貞編『シンポジウム邪馬台国』が、容易に諸説を知ることが出来る。
(2)斎藤忠『日本人の祖先』二三八頁。
(3)坂本太郎『国家の誕生』五九頁。
(4)津田左右吉『日本古典の研究(上)』、直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』、上田正昭『日本武尊』、藤間生大『やまとたける』
(5)堀一郎『遊幸思想』所収、「東国の社寺緑起を中心とする日本武尊の伝説及信仰の分布」、川村優『本納町史』、平野馨『房総のやまとたける―西上総を中心としての民俗学的考察―』。
(6)新野直吉『国造と県主』この書は広く国造と県主について、多くの研究者の説を参照し批評している。
(7)国造のおかれた地を示す資料は『旧事紀』巻十の「国造本紀」があるが、これには一三五であるが、他の古典によってさらに六を追加する事が出来る。この書は著者不詳。物部氏系統の記事が多い。序は蘇我馬子となっているが、これは疑わしく平安初期の編とされているが、特に巻五・巻十は他にない所伝がある。
(8)有力な首長が前方後円墳を造った。円墳の前に方形の塚をつなぎ合わせたような姿をしており、二子塚・ひさご塚などの名が示すような形をしている。日本独自のものであるが、なぜこのような形となったか諸説があるが、近畿地方(奈良県・大阪府など)には巨大なものがある。大和政権の力を示すものだが、地方の豪族もそれをまねたのであって、その勢力を推測する手がかりとなる。上田宏範『前方後円墳』などがまとまっている。
(9)法律の施行細則のようなもので、これより前の弘仁・貞観の二式および、その後の式を集成、完全な形でのこる最古の書。延喜五年勅命によって、編に着手したのでこの名がある。国史大系本が善本。
(10)正しくは『和名類聚抄』源順編、承平年中(九三一―九三七)成立、日本で最初の分類体百科辞典、日本古典全集におさむ。
(11)考古学の他の分野とちがい、全般的な横穴を研究した書はまだない。神奈川県を中心とした赤星直忠『穴の考古学』が唯一であろう。埼玉神奈川の横穴研究が比較的進んでいる。斎藤忠博士のこのたびの長柄町横穴研究は、今後の指針となるであろう。全国的な概観は、雑誌「歴史読本」五〇年七月号に、「横穴墓と古代国家の謎」の特集があるが、その一覧に「徳増二七基」があるのみである。
(12)日本歴史第三四四号(五二年一月号)所載、「千葉県長柄町の横穴群と追刻された紀年銘」。
(13)『市原のあゆみ』に諸説の紹介がある。『千葉県史(明治篇)』は能満説をとっている。
(14)刑部(ぎょうぶ)とは律令制で八省の一。訴訟の裁判罪人の処罰を司る役所。
(15)これについては津田左右吉「大化改新の研究」(『日本上代史の研究』所収)井上光貞「部民の研究」(『日本古代史の諸問題』所収)平野邦雄『大化前代社会組織の研究』関晃『大化前代における皇室私有民』(『経済史大系I』所収)佐伯有清「東国地方の名代と子代」(『古代史の謎をさぐる』所収)薗田香融「皇祖大兄御名入部について」(『日本書紀研究第三冊』所収)などがある。特に佐伯薗田氏は刑部について論じておられるが、ここではその委細な点はふれない。
(16)この上総の歌は、十九首のうち拙劣な歌を棄て、十三首を採ったのであるが、最初にあるのは国造丁(くにのみやつこのよぼろ)である。従来の註釈では「国造の家の使用人」としていたが、これはその国の防人(さきもり)集団の指導者であることが明らかとなっている。岸俊男「防人考」(『日本古代政治史研究』所収)、助丁(すけのよぼろ)である刑部直三野も、従来の注釈のように、「上丁を助けるもの炊事役をする廝丁かともいう」(日本古典文学大系本頭注など)というは誤りで、引卒者の副をつとむるもので、国司に関係ある一員であろう。新野直吉「防人国造丁の哀愁」(『謎の国造』所収)参照。
(17)正倉院文書二二所収、宝亀四年六月八日「智識優婆塞貢進文」
(18)天長五年調庸銘。
(19)『万葉集』巻二〇の防人歌には、長柄郡に属することの明らかなものは、上丁(かみのよぼろ)。若麻績部羊(わかおみべのひつじ)ただ一人であるが、その出身地は不明。「筑紫辺に舳(へ)向かる船のいつしかも仕へまつりて本郷(くに)に舳(へ)向かも」(筑紫に舟のへさきの向いているこの舟がいつになったら任務をおえて国の方へそのへさきを向けることであろうか)が、その作歌である。
(20)この大和朝廷の常総(常陸・下総・上総)地方進出の状況を、佐伯有清博士は明快にとかれ、その中で刑部という名についてふれている。「東国地方の名代と子代」(『古代史の謎をさぐる』所収)。
(1)邪馬台国については多くの著書論文が多いが、佐伯有清『研究史邪馬台国』、石井良助・井上光貞編『シンポジウム邪馬台国』が、容易に諸説を知ることが出来る。
(2)斎藤忠『日本人の祖先』二三八頁。
(3)坂本太郎『国家の誕生』五九頁。
(4)津田左右吉『日本古典の研究(上)』、直木孝次郎『日本古代の氏族と天皇』、上田正昭『日本武尊』、藤間生大『やまとたける』
(5)堀一郎『遊幸思想』所収、「東国の社寺緑起を中心とする日本武尊の伝説及信仰の分布」、川村優『本納町史』、平野馨『房総のやまとたける―西上総を中心としての民俗学的考察―』。
(6)新野直吉『国造と県主』この書は広く国造と県主について、多くの研究者の説を参照し批評している。
(7)国造のおかれた地を示す資料は『旧事紀』巻十の「国造本紀」があるが、これには一三五であるが、他の古典によってさらに六を追加する事が出来る。この書は著者不詳。物部氏系統の記事が多い。序は蘇我馬子となっているが、これは疑わしく平安初期の編とされているが、特に巻五・巻十は他にない所伝がある。
(8)有力な首長が前方後円墳を造った。円墳の前に方形の塚をつなぎ合わせたような姿をしており、二子塚・ひさご塚などの名が示すような形をしている。日本独自のものであるが、なぜこのような形となったか諸説があるが、近畿地方(奈良県・大阪府など)には巨大なものがある。大和政権の力を示すものだが、地方の豪族もそれをまねたのであって、その勢力を推測する手がかりとなる。上田宏範『前方後円墳』などがまとまっている。
(9)法律の施行細則のようなもので、これより前の弘仁・貞観の二式および、その後の式を集成、完全な形でのこる最古の書。延喜五年勅命によって、編に着手したのでこの名がある。国史大系本が善本。
(10)正しくは『和名類聚抄』源順編、承平年中(九三一―九三七)成立、日本で最初の分類体百科辞典、日本古典全集におさむ。
(11)考古学の他の分野とちがい、全般的な横穴を研究した書はまだない。神奈川県を中心とした赤星直忠『穴の考古学』が唯一であろう。埼玉神奈川の横穴研究が比較的進んでいる。斎藤忠博士のこのたびの長柄町横穴研究は、今後の指針となるであろう。全国的な概観は、雑誌「歴史読本」五〇年七月号に、「横穴墓と古代国家の謎」の特集があるが、その一覧に「徳増二七基」があるのみである。
(12)日本歴史第三四四号(五二年一月号)所載、「千葉県長柄町の横穴群と追刻された紀年銘」。
(13)『市原のあゆみ』に諸説の紹介がある。『千葉県史(明治篇)』は能満説をとっている。
(14)刑部(ぎょうぶ)とは律令制で八省の一。訴訟の裁判罪人の処罰を司る役所。
(15)これについては津田左右吉「大化改新の研究」(『日本上代史の研究』所収)井上光貞「部民の研究」(『日本古代史の諸問題』所収)平野邦雄『大化前代社会組織の研究』関晃『大化前代における皇室私有民』(『経済史大系I』所収)佐伯有清「東国地方の名代と子代」(『古代史の謎をさぐる』所収)薗田香融「皇祖大兄御名入部について」(『日本書紀研究第三冊』所収)などがある。特に佐伯薗田氏は刑部について論じておられるが、ここではその委細な点はふれない。
(16)この上総の歌は、十九首のうち拙劣な歌を棄て、十三首を採ったのであるが、最初にあるのは国造丁(くにのみやつこのよぼろ)である。従来の註釈では「国造の家の使用人」としていたが、これはその国の防人(さきもり)集団の指導者であることが明らかとなっている。岸俊男「防人考」(『日本古代政治史研究』所収)、助丁(すけのよぼろ)である刑部直三野も、従来の注釈のように、「上丁を助けるもの炊事役をする廝丁かともいう」(日本古典文学大系本頭注など)というは誤りで、引卒者の副をつとむるもので、国司に関係ある一員であろう。新野直吉「防人国造丁の哀愁」(『謎の国造』所収)参照。
(17)正倉院文書二二所収、宝亀四年六月八日「智識優婆塞貢進文」
(18)天長五年調庸銘。
(19)『万葉集』巻二〇の防人歌には、長柄郡に属することの明らかなものは、上丁(かみのよぼろ)。若麻績部羊(わかおみべのひつじ)ただ一人であるが、その出身地は不明。「筑紫辺に舳(へ)向かる船のいつしかも仕へまつりて本郷(くに)に舳(へ)向かも」(筑紫に舟のへさきの向いているこの舟がいつになったら任務をおえて国の方へそのへさきを向けることであろうか)が、その作歌である。
(20)この大和朝廷の常総(常陸・下総・上総)地方進出の状況を、佐伯有清博士は明快にとかれ、その中で刑部という名についてふれている。「東国地方の名代と子代」(『古代史の謎をさぐる』所収)。