大化の改新によって土地は公地公民となり班田収授の法が実施された。この法の実施された土地は整然と長方形の形をした耕地となり、今日までもその跡をのこしている。大多喜町及び市原市にあるというが、この長柄にはそのあとが残っていない。広い耕地のない地形の関係から不可能であったと思われる。ともあれその耕作面積に応じた租税はとりあげられていた。この制度も社寺の所有地はのぞかれまた従来の豪族は田荘(たどころ)(私有地)はとりあげられたが、それらがまた官職・位階・功労によって、職田、位田、功田などとして与えられ、また人口の自然増加により法令通りの実施は困難となっていった。班田法によれば男子に二段(一九・八a)女子はその三分の二が支給された。
租税ということばは今でも使われているが、租は田から稲の収穫によるもの、税とはそれ以外をさす。
庸は穀物以外の生産物、調は労力を奉仕することであるが、その労力によった産物が徴収された。雑徭は労役奉仕で国司の権限で、成人の男子は一年に六〇日間使われたが、その間の食料は支給されず、特に農民はくるしんだ。租は田租ですべての収穫の約三%(上田)であった。ふつう稲束に換算すると、一人あて租四束・庸一〇束・調二〇束・雑徭六〇束の割合という。太平洋岸では、稲をかった時の十把を一束としたが、高柳光寿博士の説に一束はおよそ米三升から五升(最近まで使われたますで二升という)で、ルーズなものであったという。近ごろまで使われていた升に換算すると、一人あたり一石八斗八升となる。しかしすべてが、米に換算されて納められたのではなく、布や指定された土地の特殊産物を納めねばならず、特に国司や役所の六〇日間の自己負担の勤労奉仕は季節もかまわず旅費も支給せられず徴発せられたのである。加えて、天候による収穫の良否を問わずに規則通り実施するのであるから、農民が困窮し逃亡するのも止むを得ない事であろう。また中央から派遣された国司は任期四年であるから、農民を保護・指導するよりも在任中に私財をたくわえることを目標とするのであるから、このような状態が長く続く筈はない。また関東の各国からは、しきりに蝦夷の討伐や、食糧の輸送の為に随時徴発せられていたその負担もある。荒地化した耕地も生じてくる。