これが以後長く中世まで続く荘園となって行くのであった。荘とはもとは別荘の意で、政治権力を持つものが居住地より遠く離れたところに私有地をもち、そこに現地の経営のために倉庫をふくむ事務所を設け荘官(しょうかん)をおいて経営にあたらせるが、その事務所を荘または荘政所(まんどころ)と云い、そのところを荘所というところから、その土地を何々の荘(庄)とよぶようになった。最初は開墾地の田地のみであったが、後には山林原野もふくむようになった。この庄には直営地と在地農民の治田(はりた)とがあり、前者を佃(つくだ)、後者を名田(みょうでん)とよんだ。経移は土地によって異なるが、後にこの荘園領主は国家から年貢・公事の徴収権をゆずられて管理にあたることとなった。この年貢・公事を収取する単位として名(みょう)が形づくられてゆく。庄屋(関西)名主(関東)という近世の呼称の根源はここに発するのである。地方官として派遣された国司やその下僚が、在任中に農民を使用して開墾し、任期終っても昇進の望みのない京に帰らず、その私有地に土着し、豪族化する傾向が時代と共に強くなって行った。