地名に庄の名のつくところは、その土地の起りが、この荘園であることを語るもので、この郷里でも味庄は文献には現われないがその一つではなかろうか。またこの郷里には文献で明らかに荘園であったとされる所がある。すなわち田代である。『朝野群載』は永久四年(一一一六)三善為康が詩文・宣旨・書札(書簡)その他を集めた書であるがその中に、『施入帳』(寄附帳)がある。これは寛平二年(八九〇)八月五日に、藻原庄・田代庄を、藤原氏の氏寺である奈良の興福寺に寄附した時のもので、その荘園の由緒を記して、これを寄附して寺の用として使ってもらい、この功徳によって迷の世から悟りの岸に渡してもらって、代々の先祖の供養の為であると述べている。寄附をした者は当時因幡掾であった藤原菅根であるが、その状によると、藻原庄は東西千弐拾丈、南北四百八拾七丈とあり、換算すると、東西は四三二〇メートル、南北一七五三メートルとなる。この地は曽祖父の故従四位上、黒麿が牧野としたのを開墾して田としたものであり、田代庄は「始め曽祖父より、祖父の従五位下春継朝臣に至る間、往々買い得て以て私業としたもの」と説明している。黒麿は宝亀五年(七七四)上総介に任ぜられた。その在任中に荘園として藻原(現在の茂原)の地を開こうとしてとりあえず牧場であるとして届出で、その後この地をその子及び孫が引続き開いて来たのであった。いま一つの田代庄がこの長柄町の田代であるというのが定説となってあらゆる歴史関係の書も是に従っている。原文では「田代庄壱処在長柄郡、壱処在天羽郡、開田三拾余町畠等」とある。天羽郡はいまの君津市のもっとも南の地域であまり広くはないが湊川の両岸に相当の耕地がある。それに対して長柄町の田代は刑部に隣接し谷あいの段状のせまい耕地である。田代は本来は「田をこしらえた所」という意味で、広く各地に多い地名であって、この項の筆者はただちにこの地を指すものと断定することに疑を抱くのだが、茂原市及びその周辺で他に此名を見出せない今日、ここでは定説に従っておく。ともあれ二ケ所を合せて三〇ヘクタール以上の田とさらに畠といえば長柄町の田代はその一部であったと考えてよい。なお一般の荘園は納税の義務があったが寺と神社の所有田となると負担が軽くなったので寺社に対する寄進田が多かったが、この寄進もあるいはその傾向の一つであろうか。この寄進者は収穫の一部は名義上の持主である寺社におさめたが実質は領主であった。なおこの寄進者の藤原菅根は、のちに参議・従四位上、文章博士となった。菅原道真の推挙で昇進したにもかかわらず、藤原時平と組んで道真を排斥し、宇多上皇が道真を救うために清凉殿(天皇の居所)に赴こうとしたのをさまたげ、そのために道真は配流され、菅根も大宰小弐に左遷されたが、ただちに許されて昇進した。その死は道真の崇りであると当時言われた人物である。
このような荘園の発達は、自己の荘園を守り、維持し、拡大をはかるための武力が必要となり、武士発生の温床となった。