上野郷の将門伝説

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天慶(てんぎょう)の乱といわれる平将門の叛乱も原因は一族の間の荘園の争いに発したのであったが、この長柄町の東北部上野にはこの将門の館址があったという。それは平将門が相馬へうつる前にしばらく居たという伝説で広瀬渉の著述である『平将門論』に記している。今日ではその伝承を知る人は現地にはほとんどいないようである。しかしすぐ北隣りの市原市の奈良、古都辺(こつべ)、菊間にかけては多くの将門伝説がある。将門が都をつくった時、奈良をうつして作ったという奈良の大仏は現存のものは石仏の立像で、文化元年(一八〇四)であるがその台座には「承平元年辛卯春建立」と当時の年号できざんだものがある。菊間の古墳は上総守となった将門の与党の興世(おきよ)王の墓と伝え、古都辺は将門の都を造った所など数多い伝承がある。古くはこのあたりを広く上野郷とよんだので、それが地名として今残っているのである。事実か否かは問わず、平将門に対する畏怖と尊敬の念が長く伝わって今日に至ったことは興味あることであろう。
 平将門の天慶の乱も、余波はこの地に及んで戦火の災はあったであろうが、さらにこの房総の地が、大規模な戦場となり、非常な被害を受けたのは平忠常の叛乱であろう。