これより前桓武天皇の曽孫高望(たかもち)王は、平姓を賜わって皇族の身分より離れ、上総へ介として赴任した。介は国司(守)の次官だが、天長三年(八二六)より親王の任国となったから、守は置かれず、介が国司の役を行った。四世の王までは調と庸を免除される特権があったが、無位無官の時には、臣下の五位のものの十六分の一の収入であったという。中央の藤原氏政権独占の過程で、これら皇族は都に志を得なかったが、地方官として下れば、歓迎されて婿取り婚でありながら、家系は父系を名のるという当時の婚姻制度も関係して有力な地盤を築くことが出来た。『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』は、系図の中では比較的信頼出来るものだが高望王の子に八人をあげている。この子孫が各地の豪族として発展し、中世の関東の歴史を動かすのである。平将門の父良将も王の第三子にあたるが、王の第六子平良文の孫に平忠常がいる。村岡五郎ともよばれた平良文は武勇をもって知られた人で『今昔物語集』巻二五に代表的な兵(つはもの)として記されている。
その孫にあたる平忠常は下総権介とも前上総介ともいわれ荘園をもつ有力者であった。その叛乱(1)の原因は国司との課役の収納をめぐる対立であったと推測されるが、万寿五年(一〇二八)六月に平忠常追討のことが朝廷で議せられ、同じ高望王の流れをくむものであるが、対立関係にあった、平直方および中原成道が追討使となったが、これらの追討使が都を離れないうちに、上総からは国人が国司の命をきかず、国司は忠常に掌握せられている報告が京に着いている。叛乱開始の時も処も不明だが、下総・上総の国府が占領せられ、続いて安房では国司が焼き殺されて占領され、新らたに下向した藤原光業は国印も倉庫のかぎも棄てて逃げ帰ったのが長元三年(一〇三〇)三月である。翌年の三月には、「忠常追討の事によって国は荒廃し、安房・上総・下総三国はすでに亡国となっている」という京への報告があった。朝廷はこの時甲非守であった源頼義を追討使に任命すると、ただちに平忠常は降伏し、頼義に伴われて都へ上る途中、美濃(岐阜県)で病死、首のみは都へ送られた。この乱について房総の地には史料が残らず、すべて中央の文献だが、三年におよぶ叛乱の結果、この上総はほとんど荒廃した。乱後三年あまり経って右大弁源経頼の家を訪れた上総介(姓不明、名を辰重という)の談話が『左経記』に記されているが、それには前任者平維時の最後の年には国内の作田一八町歩余りである。上総の本田は、二二九八〇余町である。自分の赴任した年に五〇余町となり、太政官符の命を守り四年間税を免除したので今年(長元七年)は一二〇〇余町になったとあるが、ほとんどの耕地が戦火の為に棄てられたことが判明する。平忠常が降伏したのはこの上総の作田十八町歩となったのち、数ケ月後であるが、なぜ戦わずして降伏したか諸説がある。(2)忠常の子常将、常近の処罰の問題も議せられたが、そのままとなり以後この子孫が各地に勢威をはるのであるが、この郷里に忠常の子に関連して二つの伝承がある。