そのひとつは笠森観音堂建立の縁起に「忠常の子、刑部三郎成常」があらわれる。すなわち後に都に出て中将殿の北の方となる桜谷の箕作りの娘を見出した地頭で、彼は忠常の三男であり佐是郡(現市原市)の主という。(『研究篇』所収縁起)第二は刑部天王宮(現八重垣刑部神社)が安永六年(一七七七)本殿新築の際の寄附勧進の際の趣意書「本殿造立徴序」に神主藤原定栄の記したもの。それによれば寛仁二年(一〇一八)「刑部三郎成常ナル者修理」とある。前者は治安元年(一〇二一)の事とあって、共に平忠常の叛乱前、一〇年ほどのことで、忠常が大いに勢威をふるっていた時期の事である。両伝共にはるか後代の記述でかつそのままは信頼出来ないし、系図にもあらわれないが、この地域もまた当時、忠常の勢力範囲であったことは十分推測出来る。残念なことに笠森寺、天王宮ともに古い歴史をもつものであるが、まったく文書の類は伝存していない。この地に関する一つの伝承として紹介しておきたい。