武峰神社

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ヤマトタケルを祭神とする、武峰神社神主の系譜である『黒須氏系図』(仮題)が疑われる大きな理由の一つとして、中間から桓武天皇を最初におき高望王を経て良文・忠頼・忠常と千葉氏の系図が継続して書きこまれていることである。是は四十六世という国延が男子がなく平秀胤の子延胤を養子として平姓に改まった時に聟の系譜を写した為と一応は考えられる。系図の史料としての信頼性は非常に少なく、歴史として見る場合には吟味しなければならないし、これを傍証するような遺品もないのであるが、さきにも触れたごとく、有力者を聟とするとその他家から入った系譜を名のる例も多いから全てを否定することは早計であろう。その国延のところに、
 上津総国長柄丘武ケ峰之宮持山之辺県主黒巣左馬介物部国延寿九十八才隠。世々物部ヲ姓トス。丸ニ鳥羽二本ヲ紋トス。穂先三分矛ヲ用。宇摩志麻治命御子山座王四十六世孫也。
 とあり、次に桓武平氏である千葉氏の系図が続き秀胤の子時秀の次に延胤をあげ、そこに次の如く書かれている。延胤の名は千葉氏系図の諸本にはもちろん無い。
  時秀一男若名一郎。寛喜四年正月十五日生。五才時、左馬介物部国延無男子。定養子。母ハ県主豊延之娘也。寛元四年十一月十五日聟養子ニ改ル。従五位上筑後守平朝臣ヲ賜フ永仁三年三月廿日記。亦古伝於集、当宮之縁起ヲ改。是ヨリ姓ヲ平ニ定ム。月星紋ヲ附ル。時秀ヨリ関六郎左衛門ヲ老臣ト而武具二十五品ヲ添来ル。後、関氏ハ成武郷之村ニ定ル。正和二年二月十七日卒。八十三才。
 とある。たしかに文体用語は近世風で古体ではない。加うるに書写年代も新しい。内容は事実であろうかとも思われるが、傍証のほしいところである。しかしともあれ、この神社としての成立は確かに古代にさかのぼり得るであろうし、かつこの相承の系図は中世までは信頼出来るという推測にとどめて後の吟味をまつ事とする。平秀胤のことについては後に胎蔵寺のところで考えたい。

武峰神社神職系図(黒須氏系図)