真福寺

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この長柄町には伝承では弘法大師あるいはその弟子真如親王(刑部月輪寺)慈覚大師(榎本長栄寺)があるが、寺院の創立を古きにおくことは通例で他に傍証はない。しかしこの長栄寺には、平安末期創立の伝承があり、またそのころの作と推測される旧真福寺(明治二八年ごろ廃寺)の阿弥陀仏像が安置せられている。またこれは榎本城との伝承とも関連があるのでここに考えて見たい。
 榎本は元禄郷帳など近世中期の文書類にしばしば江之本と記されている。おそらくは入江のほとりという意であろうが、かつて繩文時代の海進のもっとも進んだ時期には、入江の様に入りこんでいて、地形から見ても現在の榎本・小榎本の間の耕地や、岩川附近は湿地帯となっていたと思う。かつて昭和十九年ごろ、本台(長南町)の丘陵地帯の開墾したばかりの畑の一角に相当多い量の貝殻が散乱しているのを見たことがある。今から考えればあるいは貝塚ではなかったかと思われる。もしそうならば九十九里沿岸の最奥の貝塚となるわけだが、当時私にその智識がなかった為、不注意にも看過してしまった。いまそれと思われる地点を探索して見たが、その開墾地はその後数年でふたたび荒地となり、植林されている為についに発見出来なかった。入江であったならばその対岸にあたるところ榎本の現在の部落は、この低地に半島状につき出ている最高五九メートルの丘陵で、その裾に民家が連続しており、その突端のいま二宮神社となっている所が榎本城址であるといわれている。外部から見られずに平地に抜けられる抜け穴もあり、城址との伝承はみとむべきではなかろうか。また二宮神社々殿の土台石として、中世以前の五輪塔の断片を使ってあり、おそらくはかつてこの台上に存在した五輪の墓塔をくずして使用したものであろう。この附近に長栄寺(天台宗)がある。ここに安置せられている木造阿弥陀仏坐像(座高約一米)は平安末期と推測される製作であるが、かつてこの長栄寺の背後にあった旧真福寺(明治二十八年ごろ廃寺)本尊であったという。その創立その他を記した文献はないが、その寺址からかつて相当量の陶器片が出土した。その中には宋代の青磁・白磁の皿、壺の破片が見られ、この仏像の年代と相当のころと考えられる。

旧真福寺蔵 木造阿弥陀如来座像

 この旧真福寺を維持して来たのは鵜沢姓を名のる一族のみであり、その鵜沢和吉家の伝承では真福寺はかつての榎本城主の菩提寺であり、鵜沢家はその末裔であるという。同家の過去帳(元禄五年の年記があるが若干新しい年代の写か)に「永万元年九月、道康山貞明院居士、竹内宗氏」および「上総国長柄郡二宮庄榎本村、光明山千丸院真福寺、榎本城主千代丸之介豊俊、家臣鵜沢右京坊」の記載がある。なお一部鋭利な刃物できりとられた部分があり、これは同家が明治初年一時衰退した時に某家に預けられた時の欠損だとのことである。永万元年(一一六五)は平安末期、平清盛が太政大臣となった年で年代的にはこの阿弥陀仏坐像の推測年代と一致している。なお今泉(長南町)の某家に所蔵せられる「上総国植生郡医王山円福寺仏性院薬師如来之縁起」に、
  そのころ榎本の城主、小糸七郎兵衛之尉貞頼と云武士ありて、数度当尊の御利益に預り、御堂一宇を寄進し造営ありけるとかや。永禄天正の間、北条氏政当国へ、乱入の砌(みぎり)、諸堂焼失す」
 という記載がある。そのころの年代が不明だが、慈覚大師御仏の記事のあとだから、平安朝期をさすのか、縁起特有のおぼろげな書き方で、ただちに信用は出来ない。勿論小糸氏(おそらくは君津の小糸川沿岸の豪族か)も文献には全く見えないのである。また前掲の千代丸之介豊俊も同様に史籍には見えない名である。安川柳渓の『上総国志』にこの榎本の北隣に接している千代丸村の項に、
 「相伝う。昔、千代丸右衛門大夫これに居れりと。けだし、地名をもって姓氏を称するは、鎌倉府以上にあるか。また房総記にいう所の榎本城というは、千代丸村に接する榎本村に在るか。しかれども今其の城址及び主将の姓名、詳かならず、或は曰く。千代丸榎本之助これに居れりと。是里見氏の属将か。」(原漢文)
 と記している。その年代は不明であるが、この尊像一体の現存は、平安末期にこの地に、中国将来の宋磁の仏具などを供へ得る実力をもった一豪族のあったことを明らかに語っているのである。中世末期の榎本城については中世の章において触れたい。