道脇寺はその地名から察して、古い大寺の存在が推測されるが、この地から高師(茂原市)にかけてこの寺と関連して安然(あんねん)和尚の伝説が広くつたえられている。安然は有名な叡山の学匠(仏教の学者)で仏教史上著名な人物である。(1)最澄(伝数大師)が天台宗を立てて以後、円仁(慈覚大師)円珍(智証大師)と高僧が出て天台宗は特に朝廷や中央貴族に重んぜられたが、特に円仁は東国出身で、関東から東北にかけてその開基をつたえる寺院が多い。笠森寺もその一つである。しかしその天台教団の本質は次第に密教化してその根本の教理はことなるが、空海(弘法大師)の開いた真言宗と同じく祈祷を中心とするものと変わって行った。空海の密教を東寺の密教という意味で東密というが、それに対して天台の密教を台密という。この天台系の密教を理論づけて大成し、台密を東密に対して優位に置くことに努力したのが安然である、彼は若くして円仁の門に入り、その滅後さらに遍昭に師事し、元慶八年(八八四)に元慶寺の伝法阿闍梨に補任せられたが、のち五大院を構えて生涯を研究と著作にはげみ「五大院の大徳」とよばれて尊敬された。その著述ははなはだ多く百部に近いが、『菩提心義略問答抄』『真言宗教時義』は台密教義の大成の書として著名である。日本における天台宗の歴史を考える時には欠くことの出来ない人である。その安然がもし伝説の如く茂原市の高師に生れこの長柄町に歿して墓があるとするならば、特筆すべきことであるが、残念ながら確証がない。安然の著作は数多く現存しているが、その出身地もなくなられた所も諸説があるが、すべて不確実で、生年が承和八年(八四一)であろうとする説がまず確実であろう。没年が延喜三年(九〇三)以前と見られているが正確には判らない。(2)その誕生地も中世に僧伝として有名な『元亨釈書』に近江の人としてある。なくなられた地について (1)相模星谷の生れでありその地になくなられた。(2)叡山西塔の大日院でなくなられた。(3)上総国長柄郡大ケ場村道脇寺説。以上の三説は『渓嵐拾葉集』という光宗(一二七六―一三四七)が、応長元年(一三一一)から貞和三年(一三四七)の間に筆録した書(3)に出ていて、相当に古くから道脇寺出身説があった。ただし (1)は同名ではあるが異人であることを橋本進吉博士が考証された。(2)が普通は認められている。(3)は根拠がないとされていた。また別に江戸の中期に敬光という著名な天台宗の学僧が、出羽国時沢説を出したが、この説も地誌と伝承によるもので必ずしも信頼出来ないようである。(4)ところで高師(たかし)は安然和尚の出身地で、この高僧の出でた所であるからこの地名が出た。鼠坂には安然の墓がある。道脇寺は安然の開基である。という伝説が『房総志料』をはじめいくつかの近世以後の地誌に記されている。