『安然旧蹟書』

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是等の事を早く享保二〇年(一七三五)以前に調査した記録がある。それは現在滋賀県の大津市坂本の叡山文庫所蔵の『五大院安然旧蹟書』と題する一巻の写本である。この書は妙音院(叡山東塔西谷)の仙順が江戸に参向した時、寛永寺の大慈院で享保二〇年(一七三五)に写したという包紙がある。大慈院は今はなくなったが、もと法親王の居られた寺で、内容から推すと享保以前のある年、天台の僧が上総に下向し、安然の伝説の調査をして、法親王へ報告したものの写しであるらしい。「上総国長柄郡山之根郷之内ニテ道脇寺安然和尚旧跡古老伝説覚書条々」として、箇条書に二十数項にわたり、その内容は現在残っている伝説のすべてをふくめて、さらに細かな記述がある。その内容を要略すると、
 (1) 安然和尚は同国同郡高師村の生れで道脇(ちわき)氏の出身で、今も産水(うぶみず)の安然井・チワキ池及び安然ヤグラという古い岩窟がある。
 (2) 安然開基の道脇寺は往昔七堂伽藍があり、百坊もあったというが、この百坊は附近の末寺の天台宗寺院をいうのを誤ったのであろう。それらは今、ほとんど日蓮宗になっている。
 (3) 御廟山安然塚という所がある。そこに廟舎を建てて頂きたい。
 (4) 道脇という俗家が現にありチワキ谷(やつ)というところもある。道脇寺村の誕生とも、道脇谷の誕生とも伝える。
 (5) 道脇寺が大館判官によって建てられたというが、それは堺町(江戸の芝居小屋のあるところ)あたりのつくりごとを真実だと思っているのであって、時代が合わない。

 という内容は特に注意すべきであろう。この安然塚は県道をつくる時に半分をきりくずされてしまったが、そこには、はっきりと埋葬された跡が残り、あきらかにある人が葬られ塚としてまつられたことが判明する。また道脇寺は現在の小学校の敷地となったところにあったが、ある年の崖くずれで埋ったという伝承があるが、明治二五年(一八九二)小学校新築工事の地ならしの際、中国の古銭一八〇〇枚が出土してこの伝承があるいは真実かと思わせるものがある。

伝安然の墓