千葉県にはおよそ六〇〇の古城址があるというが、この長柄町にもその伝承の存するところはいくつかあるが、その興亡は全く不明である。城というと多くの人は名古屋城・江戸城あるいは近ごろ盛んに復原される石垣とそびえ立つ天守閣を想像するであろうが、中世の城はそれとは異って地形に若干の人工を加え、数日間の攻撃に堪える程度の拠点と考えるべきであろう。特に石のまったく無いこの房総の山間部では、一度廃城となればたちまちにその面影もなくなり、山林と化してその痕跡もとどめない。僅かに地名小字名として残ればよいというのが現実であった。また地形が原因しているのであろうが、この房総の中央の山間部には大きな権力をもつ豪族が館をかまえ、城郭をきずいてその地方の中心となることも非常に稀であった。長柄町周辺では長南の武田氏のみが有名であるが、それも中世の末期ともいうべき時代で、さかのぼって鎌倉期となればほとんど辿る事が出来ない。特に上総は中世になって鎌倉政権によっておかれた守護が足利氏であったことは判明するが、のち南北朝の争覇を通じて室町中期に至るまで、その名はわずか数名が知られているにとどまる。(1)また知られた限りの中世文書にも前述のようにこの長柄の地名は現われて来ない。康正二年(一四五六)武田信長が長(庁)南に城を築いて以後、中世末期までほぼ長柄町の南半分はその勢力下に置かれ、長享二年(一四八八)前後から土気城の酒井氏が、北半分の現在の日蓮宗寺院のみが存在し、他宗を交えない地域を支配下に置いたことが推測せられるが、それ以前にこの地を現実に支配していたのは誰であったかの手掛りはほとんどない。ここでは房総の地の政治権力の所在やその争いの経移は一般の書(2)にゆずり、かつ重ねて記述することを避け、この地にのこっている城址豪族に関する伝承と、文献に点在する記載を必ずしも年代の順にとらわれず推測を試みたい。