榎本を中心にある程度の豪族が、古代末期に存在していたことは既述のごとくだが、現地にのこる伝承に、源頼朝が安房に上陸し、北に進んだ時に榎本城をせめ、その際愛馬が倒れたのを葬ったのが駒塚(隣接の茂原市上茂原の小丘)であり負傷した兵が木崎(茂原市)で療治をした。その故に木崎と榎本の間は今も縁組みをしないし、もし縁組みをしても破談になるという説話がある。源頼朝は東京湾沿岸の道をとったのであってこれは当然史実とはみとめられない。駒塚はあるいは祭天の儀式に馬を犠牲とした祭場の痕跡かとも推測せられる。(3)北に隣接する千代丸・力丸の二部落はこの名の兄弟によって開かれたとも伝え、また力丸には鎌倉中期の鉄造准提観音像が小堂に安置せられており、また榎本城主の名を千代丸榎本之介(助)と伝えることは既述のごとくだが、中世末に至っては武田氏に属したという。管見ではこの城の名は文献の上ではただ一ケ所見えるのみである。それは北条氏康が伯父幻庵へ書き送った書状によって記したという『鴻台後記』に、北条里見の再度の会戦の永禄七年(一五六四)正月、里見義弘が緒戦に有利でありながら油断をして大敗したことを記した一節である。
「――前略―― 日もくれかゝり、小雨そゝぎければ、少し勢をやすめんため、鎧を脱ぎ馬に水草かい明日の合戦を心がけ、今を油断するこそ運命つくる時刻なれ。比は永禄七年甲子正月八日申の刻に至て、氏政軍兵近々と押よせ、鯨波をどっと揚ぐ。――略―― 義弘ついにうちまけて、尽く敗北す。突伏、切伏追討すること将棊だをしに異ならず、敵方打死の人々には、正木弾正左衛門尉父子、勝山豊前守父子、秋末将監、里見民部少輔、同兵衛尉、正木左近太夫、次男平六、菅野神五郎、加藤左馬允父子、長南七郎、鳥井信濃守父子、佐貫伊賀守、多賀越後を始め、五千余騎打死す。上総国しいづか、えの本、ねりわた、此外の城々、此の勢に皆尽く城を開きて落行ぬ。――下略――
とある。しいづかは椎津城であろう。ねりわたとあるは未考。えの本あるいはよねもとの誤写の疑もある。ただしこの五千余騎打死とあるは、北条方の記録であるから誇大で、『里見系図』では勝山豊前守以下三十余騎悉く打死とあり、別の正木一族の戦死と加えてもこの様な数字とはならない。近世中期の写しだが日輪寺過去帳に「長南巻殿正木平七殿。永禄甲子正月。打死者大小合百余人死ス。」とあるのが正確と見るべきで、ここに巻殿とあるのは長南七郎であろう。(4)なお鴇谷日輪寺の薬師堂(今廃)は武田氏の帰依を受けたとの伝承があり、その縁でこの記載となって記されたと推測される。余談ではあるが、中世の戦記に記された合戦の人数は非常に尨大であるが、これは近世となって記録せられた時の筆者の文学的修飾であることがこの一節でも伺うことが出来よう。榎本城の終末については榎本の鵜沢家にのこる伝承では、天正一八年(一五九〇)本多忠勝の来攻に一日にして上総の諸城(いろは四十八城と伝う)落城したが、その時開城し城主は土着してその裔が姓を変えて鵜沢姓を名のったという。