鴇谷より高山へぬける道の左側に、城の越(じょうのこし)とよばれる地名がある。急な山の斜面をのぼると山のみねに沿うてきり立ったがけが連り、明らかにかつて人工を加えて削りとった痕跡がある。一ケ所のみ通路だったらしいきりひらかれたあとがあり、城址というにはあまりにも狹い地だが、平らになった部分もある。古い文献には全く見えないが『上総町村誌』にはじめて畠山氏の城あとで、金谷村にその後裔という家あり、重忠の画像ならびに使用の弓のあることが記されている。これはハタヤマという家名をもつ石井秀夫家のことである。重忠の画像はいまだ見出せないが、あきらかに近世以前の重藤の弓一張が伝来している。また明治初年まで小堂があり安置せられていたという仏像はいま朽損して手一本のみが残存するが、赤色で明王像であることは判明するが、その尊名が定かでない。畠山氏は桓武平氏の村岡良文の裔。秩父地方の豪族で、畠山重忠(一一六四―一二〇五)は源頼朝挙兵の際、最初は平家方にあったがのち頼朝に帰伏して戦功あり、一時は梶原景時のざん言にあったが罪を免れ、その言動が篤実で頼朝の信頼を受けた。元久二年(一二〇五)北条時政の策謀により討たれたが、『吾妻鏡』にも立派な武士として描かれ、軍記物語や後世の文学にも、模範的な武人として描かれている。重忠の妻は重忠の歿後、岩松義純に再嫁し、その子泰国は畠山三郎と号して上総介となり、この末裔はのちに京にのぼり室町幕府の管領となり、名家として史上にしばしばその姿を見せるが、あるいはこの系統のものがこの地にあったのではなかろうか。上総では中世末期、大永六年(一五二六)に大関城主(大網白里町)畠山六郎重康が武勇の誉があったが、家老の寝返りのため東金の酒井氏に亡されたという記事が『土気東金両酒井記』にあり、『南総酒井伝記』は永禄十二年(一五六九)なるべしとしているが、他に房総の畠山氏については所見がない。
鴇谷 日輪寺過去帳