飯尾氏と御小屋城

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御小屋は豪族の館址、もしくは番所などをいうことばであるが、飯尾の背後の標高一〇〇メートルの地に御小屋城址と伝うる地がある。伝説では、千代丸・力丸の兄弟の居城であったという。また道脇寺に関係のあった大館判官の居城とも伝えているが、是は文学作品を事実と誤った伝承らしい。ともあれ要地であって城址というにふさわしい地形である。記録の上では『飯尾氏系図』によれば、中世末期にその居城であったことを記している。飯尾氏はその系図では田原藤太秀郷の後胤で、田原重光が和歌の功によって飯尾の姓を賜わったとあり、重光は始め彦六左衛門尉と称し、改姓後飯尾新左衛門尉政覚を名のり、総州長保郷に居り飯尾邑は是より始まったことを記しているがその年代が確定出来ない。飯尾氏と和歌と言えば「汝(なれ)や知る都は野べの夕雲雀(ひばり)あがるを見ても落つる涙は」の歌の作者は飯尾彦六左衛門尉であるという伝えは有名で『応仁記』その他にも載せられているが、『日本史辞典』(角川版)もその実名は不明としている。清房、常房、あるいは政常という説など近世以後さまざまに言われているが、(5)この飯尾氏系図を裏づける資料が見出せれば、この名歌の作者が確認出来るのであるが、いまだ諸書からも確定できるものを見出すことが出来ない。飯尾氏は後、駿河の今川氏に従いその滅亡後この飯尾に帰り、致房は天正十七年(一五八九)庁南城主武田信栄の真木(万喜)城の正木氏を攻むる戦に参加、戦没したことを記している。郎党一六人、士卒二千余人であったが、僅かに一五人が幼主を抱いて飯尾に帰りこの幼主が飯尾隼人致政で御小屋城に居たことを記しており、寛永一七年(一六四〇)歿して飯尾寺に葬ったとして始めてここに飯尾寺の名が見える。日什(一三一四―一三九二)の開山を信ずればさらに古くこの寺はあった筈であるが、おそらくは飯尾寺の真の創立は中世の末期となるのではなかろうか。近世の部に述べたごとく、不動尊像の安置はさらに降って元禄五年(一六九二)に近いころであろう。この系図は抄写本を見たにすぎないので更に原本を精査したいと考えている。「木村倉三氏覚之書」(6)によれば大永年間(一五二一―一五二八)に一五〇戸、万治のころ(一六五八―一六六一)には二〇〇戸、毎月六回の市が開かれ、天明五年(一七八五)六月一五日に大火あり一〇三戸に減少、天保一三年(一八四二)五二戸、明治に至って一〇戸となったと飯尾の盛衰を記している。具体的な数字ではあるが確認出来る傍証がない。ともあれ中世の末期以降、飯尾氏によってこの地名が生じ、飯尾氏の拠点として御小屋城があったことは認めたいと思う。