かくれ住んだ人たち

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既述のようにこの長柄の地は複雑な地形であって、現在のように交通路の開かれなかった時代、一度この地に逃れ入れば、他からは容易にそのあとを追うことは出来なかったことは充分想像が出来ることであろう。したがって戦いに敗れ、この地にかくれすんだという伝説はいくつか伝えられている。平秀胤が晩年をこの地ですごしたという伝承は、次の胎蔵寺の項でふれるが、他に世に知られたものとして池和田城の多賀蔵人の遺児の逃れ来って、この地に住んだ記録がある。
 多賀氏は近江の佐々木氏より出でたというが、いつこの房総の地に来たか明確ではない。大永元年(一五二一)竜渓寺寄附状によってこの時以前に池和田城(市原市)にあり、里見氏の部将として重きをなしていたことが判明する。おそらくは永享一一年(一四三九)足利持氏が鎌倉において自殺したのち、その遺児成氏が再び京都側の援助を受けて関東に下向した時にこの房総の地に来たのではないかと考えるが定かではない。系図では文明元年(一四六九)池和田城に拠るとしている。ともあれ、多賀氏は里見方につき共にしばしば北条方と戦っている。天文七年(一五三八)国府台における第一回の戦いには里見義堯に従って勇戦したが敗れ、第二回の永禄七年(一五六四)の合戦には里見義弘と共に北条氏政と対戦、再び敗れ、この時多賀蔵人の父、越後守高好と、子の新九郎が戦没。蔵人高明と弟の兵衛佐高方は池和田城に拠り、追撃し来った北条勢の攻囲の中に百余日、ついに五月九日落城した。この落城の状況は諸書によって差があり、(一)一回の北条方の攻撃で落城『関八州古戦録』(二)一度取られた城を再び取返した『房総里見軍記』(三)初めにとられ、次に取返し、三度目についに落城『里見軍記』(四)矢軍のみで北条方は退いた。『里見代々記』と以上四説あるが、共に近世に入っての軍記物語で疑うべき点が多いが、いずれの場合でも多賀蔵人の奮戦力斗を中心に描いている。この時、兄の高明は安房に逃れ、弟は戦死し、この高明の遺児がこの舟木郷八反目(はっため)にかくれ住み時節をまったと伝え、多賀太郎家にはその遺品が伝えられている。(7)
 いまひとつの逃れ来ったという伝承は真名(まんな)城(茂原市)落城にからまるもので、この真名城については中世に関する他の文献には現われていない。ただ「真名城由来記」と題する写本が伝存する。(8)内容は近江の佐々木家より出でた三上重政が真名城主であって、小林城(茂原市)や高木氏、千葉氏と連繋していたところ、弘治元年(一五五五)同じ北条方に当時属していた武田氏に急襲せられ、城内の川島大学以下三〇余騎戦没し、三上氏は以後逃れて高木氏(松戸市)にたよった。北条氏康はこの攻撃は武田の私意によるものとして保護を加え、後に三上氏は天正一八年(一五九二)岩槻に於いて戦死したというもので、文章は稚拙であるが、その内容に一部人名の誤りは存してもこのような小合戦のあったという事実は認むべきであろう。この川島大学の遺児が逃れて中野台にかくれたという川島家にこの文書が伝存しているのであるが、おそらくは近世初頭、のちの村の明細帳とよばれるものに類似した書類の提出を求められた際に、古城の由来書を報告した控書のようなものではないかと推測される。中世末期の戦国の世に、自己の勢力の拡充には手段をえらばぬ当時の姿を伺うことが出来よう。同時にこの複雑な地形が逃れ来ったものを安全に守ったということを物語るものではなかろうか。
 なお徳増に要害という地名が残っている、現在の城徳寺の所在地も人工の加わえられた地形の状態から察してまた古い城址と推測されるが早く廃絶したと見え、わずかに宍倉季麿家蔵の近世の文書にその伝承が伺えるのみであるが、今後の精査をまちたいと思う。
 註
 (1)佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』『室町幕府守護制度の研究(上)』の上総国の部を参照。
 (2)入手しやすいものに小笠原長和・川村優『千葉県の歴史』および『千葉県史明治編』の中世の部がある。大野太平『房総通史』は戦前の執筆で新編『房総叢書』別巻として刊行された書だが大観出来る労作。この地は中世末期には里見北条両氏の争覇の地となったが、里見氏については古く、大野太平『房総里見氏の研究』があり、関東全般の中世史の上から眺めたものに渡辺世祐博士の『関東中心足利時代之研究』があって、その概観が出来よう。長南武田氏については『長南町史』が単行書としては唯一。論文は精粗さまざまだが新羅愛子『千葉県研究文献目録』によって知られよう。ただし、この長柄町区域内の古城ならびに豪族については触れるところ、まったくと言ってもよいほど見当らない。それらの既往の書を参考としながら述べていない所に重点をおいて此の章を執筆した。
 (3)中山太郎「絵馬源流考」『日本民俗学論考』所収。
 (4)『上総庁南武田氏系図』(房総叢書九巻所載)の宗信の項に庁南牧城開基とある。牧城は所在不明だがこの吉信の子であろうか。『里見系図』では、大いに奮戦したことが記されている。正木平七は『正木系図』によれば時茂の子。年二五であった。
 (5)川田順『戦国時代和歌集』三三頁
 (6)飯尾の木村正道氏蔵。明治四一年六〇才あまりでなくなられた木村倉三翁の覚え書。
 (7)『市原のあゆみ』に多賀蔵人の夫人が矢田まで逃れてそこで自殺したという姫塚の由来を語る悲話が紹介されている。
 (8)中野台、川島美董氏蔵。内田邦彦『南総の俚俗』に紹介。この書は「日本民俗誌大系」第八巻におさめられたので容易に見られることとなった。