日蓮と榎本庵

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貞応元年(一二二二)安房小湊に生まれた日蓮は、清澄山に登って天台を学び、さらに鎌倉・叡山・南都・高野山などに学んで、仏法の真髄が法華経にあることを悟り、建長五年(一二五三)清澄山に帰って自己独自の信念のもとに新らたな布教を開始した。その第一歩としての笠森寺参詣がこの地方では広く信ぜられている。それは笠森寺にある『日蓮上人参籠笠森寺由来』(1)と題する元亀二年(一五七一)三月の奥書をもつ縁起で、そこで墨田五郎が始めて信者となり、ついで藻原遠江守が帰依したことを語り、妙法を唱え初めたのはこの笠森寺であることを主張しているが、縁起であることから歴史研究者はこれを用いない。日蓮宗史の研究者も、建長五年以後の四五年間の日蓮の事蹟は定かでないとしているのが定説であるが、(2)笠森寺参詣、ついで藻原寺の前身である仏堂の建設、斎藤兼綱の帰依などは一つの伝説として、それを積極的に裏づける史料がないとして否定することは容易であるが、事実でないということを実証することもまた不可能である。私は有り得たこととして、この地方における日蓮の伝説を考えてみたい。さて普通には妙光寺の前身が榎本庵であるとしているが、これは日蓮の伝記としてまとまった現存のものとしては最古の『日蓮聖人註画讃』の漢文で記されたものにはじめて見えている。この書は鎌倉の妙法寺日澄(一四四〇―一五一〇)の著であるが、後の平がな本ではこの名が消えている。この榎本庵を従来の日蓮研究者は近くにこの地名があることを知らず後の妙光寺の前身として考えている。しかしおそらくは現在の長柄町の榎本にあった為にこの名がつけられ、さらに日蓮は藻原に赴いたのではなかろうか。榎本が当時、ある程度の集落をなしていたことは既述のごとくだが、私はこの日蓮の最初の根拠地を、地名を庵名につけるという慣習からこの榎本の地におきたいと思う。なお立鳥の汲井谷の井戸も日蓮上人の井戸として著名であるが、全国各地に同類の霊水が散在している。(3)この立鳥・針ケ谷は中世に創立と伝える寺院が多く、針谷寺には明らかに日蓮筆蹟(著書の一行をきりとったもの)とみとめられるものを所蔵している。応永二四年のころ刑部・鴇谷にあった日蓮宗寺院がすでに廃絶したことを記した文書が、法華経寺にあるが、このあたりは上総の初期日蓮教団の有力な地帯であったことを語っていると思われる。(近世篇参照)