大津倉の親鸞伝説

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鎌倉時代の新しく興った仏教のなかで、その末流は、後に日本最大の宗派である浄土真宗となった、その開祖と仰がれた親鸞は承安三年(一一七三)の生れである。若く叡山で学んでいたが、建仁元年(一二〇一)法然の門に入って、専修念仏の信仰に帰依し、承元元年(一二〇七)旧仏教側の攻撃を受け師の法然が流罪となるや、親鸞も連坐して越後に配流された。四年後、ゆるされたが帰京せず、建保元年(一二一四)妻の恵心尼を伴って関東に移住、常陸(茨城県)に住み、文暦元年(一二三四)ごろ、あるいは数年早かったかも判らないが京へ帰った。この東国にあるころ農民や下層武士を対象として布教するかたわら、自分の信仰を伝える著作につとめ、はっきりと自らの信念を確立した。彼の常陸にあったのはおよそ二十年に近い才月であるが、稲田・横曽根・鹿島などに門下生が多いことから、彼の行動範囲も推察出来るが細かな点は判らない。ところで大津倉の篠田家(屋号エンドウ)には親鷲が来て宿泊したという伝承があり、その時頂戴の御自筆阿弥陀画像一幅を所蔵し、後に親鷲の曽孫にあたる覚如(一二七〇―一三五一)が訪れて同じく御自筆の二十体御影一幅を遺したとしてその画図がある。またその間の事情を細かに記した縁起が伝わり、昭和二二年ごろまでは屋敷内に小堂があって、他に阿弥陀仏立像などと共に安置せられていた。(研究篇にそれらは全て翻刻紹介した)この画像は親鷲、あるいは覚如というよりも、すこし時代が新しいのではないかと推測されるが、室町初期を降る製作とは見られない。この二十体御影は上部に浄土八祖を描き、阿弥陀如来座像を中央に、さらにそれを囲むように十二人の僧を描いている。浄土教の祖師先徳の像は師資相承を示すもので、光明本尊とよばれるものの一つであるが、初期真宗教団で本尊として使われたもので、主として真宗仏光寺派に多いという。仏光寺派の了源(―一三三五)は覚如と対立関係にあり、覚如自らは強くこれらを邪義として非難しており、むしろこの地にこの画幅をもたらしたものは、親鸞・覚如ではなく、仏光寺派系統の真宗の僧であったとおもわれる。残念なことに下部に描かれた僧名が磨滅して読みとれない。もしこの名が判明すれば、この地に布教した僧の系統が明確となるのであるが、将来同種のものとの比較をまつ以外に方法がない。(4)この長柄町ならびに周辺には他に浄土真宗の寺院が存在せず、この特異の画像と共に、念仏の信仰を守って来た篠田家代々の篤信にあらためて驚かされるものがある。