以上述べて来たごとくに長柄町において、中世もしくはそれ以前に建立せられたと推測される寺院はいくつか存在し、中世以前の遺品も少数ではあるが存在するのであるが、中央の文献にその名が見え、かつ日本の歴史の上に活躍した人物の明確な遺跡が存するのはただ一つ、これからのべようとする長柄山の胎蔵寺のみであろう。胎蔵寺は現在、その寺名が眼蔵寺と変わっている。この理由を『上総国誌稿』は、土地の人は眼蔵寺と呼んでいるが、これは山門に胎蔵寺と草書で書いた額があったのを、胎と眼は似ているので誤って呼んでいるのであると説明しているが、近世までの文献にはすべて胎蔵寺として記されている。(5)
この胎蔵寺の歴史は前後の二期に分けて考えるべきであろう。前期は伝説の時代であり、後期は禅宗寺院としての時代である。創立年代は不明。千葉秀胤建立と伝えるのは縁起によるのであろうと思われる。漢文縁起、仮名縁起ともに研究編の「社寺縁起集」に翻刻したが、縁起類の常としてあまりに物語り的な仮空談であって、まずそれから離れて秀胤との関係を見たい。