鎌倉幕府の歴史は、源頼朝の妻であった政子の生家である、北条氏の覇権確立へ進む為の他族弾圧の争いの歴史であったが、この間北条氏の内部においても、親子兄弟や親族の間での血を血で洗う陰惨な戦いが続き、一方では頼朝以来の功臣が、北条氏のたくみな謀略の手によって次から次へと倒されていった。その間にあって三浦氏はあるいは裏切り、あるいは形勢を見て北条氏につき最後まで残った豪族であった。北条時頼が寛元四年(一二四六)一九才の若さで兄経時が病のため退いたあとをうけて執権について間もなく、同じ一族の名越光時が時頼に代わらんとして失敗した。この時は三浦泰村は御家人の中での最有力者であったが、時頼は三浦氏を味方に引入れこの危機を乗りきった。光時派であった千葉秀胤は評定衆の職にあったが、免ぜられて上総の一の宮の大柳城に引きこもった。秀胤は千葉常胤の嫡系。常胤は頼朝の挙兵に際していち早く馳せ参じて大功をたて、信頼をうけ上総に地盤をもつ同族の平忠常の横死後、その所領の大半をうけ、胤正、さらに常秀に伝え、常秀の子が秀胤で当時の房総におけるもっとも有力な豪族であった。彼の列していた評定衆は北条泰時が創設した機関で執権と共に裁判・政務を合議々決する政府の最高機関であった。ところがその翌宝治元年(一二四七)三浦氏は遂に亡滅し、秀胤の妻が、三浦泰村の妹であった関係から討伐せられ一族すべて自殺して果てた。この事件を「宝治合戦」というが、やはり北条氏の陰謀らしく、六月五日に北条時頼の使が再度三浦泰村を訪れて、和平の意志を伝え喜ばせた直後に、時頼の外戚の安達氏が突如三浦氏の館をおそい、三浦一族は、頼朝の墓のある法華堂に立てこもり、頼朝の影像の前で往事を語り合ったのち、泰村以下五〇〇〇余人、討死、自殺し、翌日、上総にあった秀胤に対する討手が出発、七日に秀胤一族はほろび去った。『吾妻鏡』にその最後を次の如く記している。
六月七日戊子、天晴。胤氏・素暹(そせん)など、秀胤を上総国一宮大柳の館に襲う。時に当国の御家人、雲霞のごとく起って合力をなす。秀胤かねて用意の間、炭・薪などを館の郭外の四面に積み置き、皆悉く火を放つ。その焰(ほのお)はなはだ熾(さか)んにして人馬の路を通るべくも非ず。よって軍兵轡(くつは)を門外に安んじ、僅かにときの声を造り矢を発す。爰(ここ)に敵軍の馬場辺に出逢い答の矢を射る。此の間に、上総権介秀胤嫡男式部大夫時秀、次男修理亮政秀、三男左衛門尉泰秀、四男六郎景秀、心静かに念仏読経などの勤をこらし各自殺す。その後数十宇の舎屋、同時に火を放つ。内外の猛火、混として半天にほとばしる。胤氏以下郎従等、その熾勢に咽び、還りて数十町の外に遁れ避けあえて彼の首を獲る能わず云々。また下総次郎時常は昨夕より此の館に入り籠り、同じく自殺す。是秀胤の舎弟なり。亡父下総前司常秀遺領の埴生庄を相伝の処、秀胤の為、押領さるの間、年来うつとうを含むと雖も、この時に至り、死骸を一席に並ぶ、勇士の美談とする所なり。
この秀胤の遺児が三谷(さんがや)村にのがれ土着し農をいとなみ、いま宮崎氏を称するのがその後裔との伝説もある。(6)『千葉大系図』には秀胤の子一人、政秀の子二人、時常の子一人は幼児故に許され、千葉介頼胤(秀胤のいとこにあたる)に預けられたと記しているが、これは『吾妻鏡』の一九日の記事と一致する。また吾妻鏡の同じ月十一日の条に「今日。東入道素暹愁い申す事あり。是、上総五郎左衛門尉泰秀(秀胤三男)は、素暹の息女嫁ぎて男子を生む。今年一歳なり。たとい縁座せらるべしと雖も、当時襁褥の内に纒わらる。是非を知る可からざる者か。今度、一方の追討使の賞を募る。預け置かる可きの由云々。請いによるべきの旨、仰出さる。」とあって討手であった東素暹(胤行)は同族であるばかりか、縁戚関係であったことが判明する。しかも焰の中に自殺した秀胤の首を確認出来なかったという事は秀胤の生存説を産む十分の素地があった事が判明する。
秀胤がひそかに逃れて長柄山の胎蔵寺に入ったというのは「黒須氏系図」によれば前章で述べた如く、秀胤の子が黒須氏に養子として入っていた為という。(7)私は結論から言えば、秀胤の生存説に若干の疑をもつのであるが、その生前、この上総の豪族であった秀胤がこの胎蔵寺の興隆に力をつくしたという事実は存在したものと考えたい。寺号を旧名の鳴滝寺から改めたという胎蔵寺とは、胎蔵界曼荼羅に擬して名づけたという。このマンダラは大日経にもとずき、金剛界に対する語で、仏の菩提心が母の胎内のような大悲の助けにより教化活動する意味を図示したもので、この地形がそのマンダラに似ているからというのであるが、これは創建当時は密教系寺院であったことを示す伝承であろう。(9)林羅山(近世初期の儒学者)自筆の『五山群緇考』(国立公文書館蔵)によれば、もと律宗であったという。もしこれが事実ならば律宗が中興し関東に進出した時期はあだかも秀胤の時代にあたる。あるいは伝承も事実を伝えるかも知れない。