秀胤没後の胎蔵寺の歴史はしばらく不明である。ただ現存の弘長四年(一二六四)銘、梵鐘はこの長柄町在住の鋳工による作品で、しかも現在もこの地に遺存する点、房総における最古の製作である点など貴重であるが、残念なことに勧進の僧寂明の名はあっても、その他の事を知り得ない。しかし、なお堂々たる寺観を保っていたことを推察し得るのみである。『仮名縁起』には北条時頼が、弘長年中鼓楼(鐘楼とあるべきか)を造立し、普光院殿が利生塔を建立、大桶(おおけ)(市原市)の明生寺殿が仏舎利を奉納、御弟の錦小路大休寺殿が大刀を奉納、築地を造るなどある。普光院とあるは足利義教の普広院善山道恵をいうのであろうし、錦小路大休寺殿とあるは足利直義のこと明生寺殿は不明。時代の前後あて字など信頼出来かねる点もあるが、この利生塔建立とあるは事実と考えられる。
利生(りしょう)塔とは足利政府の草創期に夢窓国師のすすめによって、元弘の乱以降の一切の戦没者を弔い、天下の泰平を祈るために、尊氏・直義の兄弟が発願したもので、全国六六ケ国に一国一寺を建立して安国寺と名づけ、同じく一塔を造立してこれを利生塔とよんだ。寺塔共に建てる筈であったらしいが、各地の経済的事情もあって既存の寺を改称した場合、あるいは寺と塔を別置する国もあった。上総の場合は安国寺は君津郡佐貫に、塔は従来は不明とされていたが、この胎蔵寺に建てられたのである。大桶(市原市)の明星寺(今廃)から移建されたというが、いまは塔のあった跡という伝承地があるのみで、五層であったか、三層であったか明らかでない。なお当時の所属宗派は臨済宗であったとする説もあるが、おそらくは律宗であり、臨済宗に転じたのは後の上杉朝宗が象外禅鑑を招いた時であろう。ともあれ足利幕府のころにあっても大寺として尊重せられていた事が判明する。