上杉朝宗と胎蔵寺

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その後およそ五〇年この寺をさらに発展せしめ臨済宗の諸山の格式としたのは、この上総の守護であった上杉朝宗であったと推測される。鎌倉時代の上総の守護は正嘉三年(一二五九)以前から足利氏であり、元徳二年(一三三〇)には、足利貞氏(尊氏の父)であった。(11)室町時代に入ると、高師直・佐々木秀綱・千葉氏胤・佐々木道誉(高氏)・新田義政・新田直明・上杉朝房と、政情を反映して目まぐるしく変わり、貞治三年(一三六四)以降は上杉氏が登場する。(12)足利尊氏は義詮を将軍として京都に、基氏を鎌倉におき関東公方と称し、相たすけて政治をとらしめた。上杉氏は足利尊氏の生母清子が上杉頼重の娘であった関係から関東公方(くぼう)を補佐する管領となったが、家は扇谷(おおぎがや)・詫間(たくま)・犬懸(いぬかけ)・山内の四家に分れ交互に管領となり関東公方を補佐した。朝房は犬懸上杉家の憲藤の子で関東各地に転戦して足利氏の為につくし、建徳二年(一三七一)没した。上杉朝宗はその弟で幼名を幸若丸といって、十三才の時はじめて大将として出陣以後合戦一六度に及んだという。関東公方二代氏満、三代満兼に仕え、応永二年(一三九五)管領となったが、応永一七年(一四一〇)満兼が歿するや、その埋葬の日、邸に帰らず僧衣をつけてそのまま胎蔵寺に来りて隠棲した。満兼は三十三才。その幼少の時より朝宗は補佐していたのである。これより前、朝宗は入道して禅助と号し、胎蔵寺を禅宗に転ぜしめ象外禅鑑を請じて開山とし、自ら開基となっていたのであるが、以後六年の後、応永二二年(一四一四)胎蔵寺において七五才をもって没した。(13)
 象外禅鑑は肥前の人。桃渓徳悟の門に入り、円覚寺第二二世建長寺第三一世となった。長柄和尚とよばれている。朝宗は深く帰依して禅助の法名は禅鑑より与えられたもの。この寺が妙心寺派に転じたのは江戸初期。