禅秀の乱

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この朝宗の嫡子が氏憲で法名を禅秀と言った。応永十八年(一四一一)管領となり、公方は満兼についで四代に持氏がなっていた。このころ上杉氏のうち、犬懸・山内の二家が勢力を二分して相対立していたが、たまたま応永二二年(一四一五)四月、褝秀の家人である常陸の越幡六郎が、近臣のざん言によって持氏のために所領を没収され追放された。禅秀はこれを諫めたが持氏は聞入れず、禅秀が所労と称して引こもり、管領を辞すると、持氏はその対立関係にある山内上杉家の憲基を管領に任命した。
 当時、京の将軍は四代義持であったが、弟義嗣は兄に不満を持ち、また鎌倉にあっては持氏の叔父満隆が持氏に不満を抱き、これと結んで禅秀は応永二三年(一四一六)八月病と称して出仕せず、関東各地に回状を廻して準備をし、一〇月二日の〓暁を期して、鎌倉の持氏の邸を急襲した。持氏の叔父足利満隆、持氏の弟持仲、禅秀の娘婿の千葉兼胤(かねたね)、上野国の岩松満純(みつずみ)、下野の那須資定(すけさだ)、甲斐の武田信満、さらに小笠原氏(信濃)・宇都宮氏(下野)・佐竹氏・小田氏(常陸)・芦名氏・白川氏・結城氏(陸奥)などの守護大名や豪族の支援があり、これらの突然の来襲に持氏は上杉憲基の邸に逃れたが、たちまち敗れついに箱根に逃げ、憲基も越後に逃がれた。鎌倉はたちまちに禅秀の手中に帰し、勝利をおさめたかに見えた。京都の将軍義持は、弟義嗣を幽閉、越後守護の上杉房方、駿河の守護今川範政に命を下し、褝秀討伐軍を派遺した。将軍の討伐令が下ったことを知り、一度は禅秀に味方した東国の諸将も浮足立って降伏するもの多く、翌年正月五日、相模川に戦って敗れ、鎌倉雪の下の鶴岡八幡宮の別当坊に入り、満隆、持仲、禅秀など一族子弟みな自刃してわずか三ケ月余りで戦斗は終了。禅秀の余党はほとんど持氏に降伏した。この戦斗の細かな模様は『湘山星移集』や『旅宿問答』などに描かれている。この上総は約五〇年にわたって犬懸上杉家が守護であったのであるから、ほとんどみな禅秀に味方した。したがって敗れて降伏して後も持氏がそれを許さなかったらしく、乱の後、応永二五年四月のころからやむを得ず起ち上って抵抗した。これを上総本一揆という。その主将は榛谷小太郎重氏といって、禅秀の執事であった。この時の叛乱は平三城(市原市)が四月二八日に落ちて一応はおさまったが、翌年正月再び蜂起、この時は五月に至るまで戦が続き、坂水城(大原町)が落ち、榛谷小太郎重氏はとらえられて鎌倉由井ケ浜できられた。関東の他の地でも禅秀余党の反乱はこの後もなお応永二八年(一四二一)ごろまで続いたが、おそらくはこの時、この長柄の地も兵火の災を受けたのではなかろうか。私はこの地に中世以前の古文書が全く無い原因として、この乱の影響を考えている。鴇谷日輪寺の鐘楼が戦いのあった時焼けおちて、釣鐘のころがったあとの田が深くなったという説話も、あるいはその反映であるかも知れない。なお禅秀の乱の時の敵味方戦没者の供養碑が、神奈川県藤沢の遊行寺境内にあり、この種のものとして最古であり、このことはまた当時の時衆の活動の一端が伺われよう。