かつてこの上総に小櫃氏とよばれる豪族があった。その名称から根拠地は君津市小櫃川流域と推察出来るが、その一族の寄附した仏具が鴇谷日輪寺にある。応永二三年(一四一六)六月二三日の銘記のあるもので、白山宮へ四面仏具・護摩器・錫杖すべて一〇二箇を寄附したとあり、大旦越(だんおつ)(施主)として前遠江守高親沙弥常吉、前越前守親秀、別当慶範律師の名が見える。白山宮址は小字名白山谷(ハクサンヤツ)にあり、近世初期まではそこに日輪寺があった。慶範は第三世にあたる。ところでこの二人は小櫃姓であり、親子の関係であることが、足利市長林寺の鐘銘で判明し、また、夷隅郡大多喜町円照寺鐘銘を参照することによって畔蒜(あびる)北庄の禁裏御料所の庄官ではなかろうかと推察出来るようになった。なお日光の輪王寺蔵の経巻奥書には小櫃参河守入道聖親の名もある。(14)この応永二三年は禅秀の乱の直前であるところから、あるいはその叛乱の計画を事前に知りその祈願ではなかろうか推測して禅秀関係文献を見るとただ一つではあったが、この名を見出すことが出来た。すなわち『湘山星移集』に持氏を急襲した時の軍勢の中に犬懸上杉の手のものとして入道嫡子中務大輔(憲方)舎弟修理亮(氏朝)郎等には千坂駿河守以下連名の次に、そのほか臼井・小櫃・大茂と連記してある。従来全く手掛りがなく、時には「幻の豪族」(15)とさえいわれていた小櫃氏は少くも犬懸上杉の郎等(ろうどう)として、この戦いに動員されたことは推察出来よう。なお中世資料の皆無とも言ってよい現状で一つの大胆な臆測として、あるいはこの長柄の地に小橿氏は若干の関係があったのではないかと推察したい。長柄山の胎蔵寺には国の守護であった上杉朝宗が隠棲、そこで歿したとすれば、当然この周辺に相当な所領なり荘園なりが存在したことが予想され、そこを管理する守護代、目代などがあった筈で、あるいはこの鴇谷周辺は守護の上杉氏の依嘱をうけて小橿氏の管轄するところとなっていたのではなかろうか。二つの鐘銘は明らかに現君津市の畔蒜庄の社寺に寄進した豪族であることを語っているが、(16)鴇谷白山宮の場合、遠く離れたこの地に特に寄進した理由としては、この地に関係があったと考える以外にないと思う。