房総鋳物師の故郷

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胎蔵寺の弘長四年(一二六四)銘梵鐘に作者広階重永の名があるのは貴重で、この広階氏は古い河内国の鋳物師であるが、この姓を名のるものが現在まで七名判明している(慶長以前)。しかし現存の遺品はこれ一つである。藻原寺の鐘はいま残っていないが、文書にはその作者広科広綱が「刑部郡内針ケ谷郷」の住人であったことを記しており、胎蔵寺の鐘の作者がすなわちこの地の出身であったことを知り得る。また本土寺(松戸市)の建治四年(一二七八)銘の鐘には「上総国形(ママ)部郡大工大中臣兼守」とあって、また刑部の鋳工であったことが知得る。房総の最古の二鐘がともに刑部郷を中心とする鋳物師であることは注目すべきで、その何故であるかを知りたい思いにかられるのであるが、幸に坪井良平氏の長年にわたる研究はその謎をはっきり解いて下さった。ここではその説の紹介をしておきたい。
 建長四年(一二五二)鎌倉長谷の大仏鋳造に招かれて参加したのは丹治氏・大中臣氏・広階氏などであるが、丹治氏は故郷の河内国へ帰ったのであるが、大中臣・広階二氏は刑部郡に住みついて刑部、針ケ谷を本拠地とした。金谷の地名はこの鋳工の住みついて以後の発生であろう。貞和二年(一三四六)に至ると東金にその影響があり、胎蔵寺境内から大正六年発見された鐘(現東京博物館蔵)は、明徳三年(一三九二)銘で、この作者国吉は、箭田(市原市矢田)の住人であり、さらに矢名(木更津市矢那)の鋳工も、むかしから著名で室町時代の文書をもち、自ら鎌倉大仏の作者を名乗っているが、矢田の鋳工と共通性があり、この刑部の鋳工の影響下にあったものとされている。銘がない為に判然とはしないが、日輪寺蔵鰐口(寛永一四年追刻銘)あるいは力丸の鉄仏なども中世のこの在地作者の作品ではなかろうか。(17)江戸時代にも刑部には鋳工があったことは近世の刑部の項を参照されたい。なお鉱滓の出土地も数ケ所あったが、この鉱滓を調査して頂いた蔵田博士からはその年代は決し得ないが、明らかに鋳工の遺蹟であろうと教示された。なお旧刑部郷の区域にある多くの古代横穴古墳群には、明らかに鉄器の使用が見られるが、この河内からのすぐれた鋳工たちが何故にこの地に来ったのか、何か、それ以前からの伝統があり、迎え得るだけの基盤があったのかなお不明の点が多い。『一宮町史』は千葉氏、上総氏の招きかとし、刑部は長柄、埴生、夷隅三郡家と国府を結ぶ交通路の要地である事を指摘したが、なおこれだけの説明では不十分であろう。今後の課題であろうかと思う。
 中世末期の長柄の地区は既述のように、ほぼ、長南、武田氏と、土気、酒井氏の治下にその影響を受けたことが察せられるが、具体的にそれらを辿り得ないことは残念である。なお武田信長が何故にこの地に来ったのか。上杉氏憲(禅秀)の妻は信長の妹であったことから考えれば、犬懸上杉家の失地恢復を願っていたことも考えられようと思う。