町の文化財

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長柄町における文化財のおよそは中世以前の作品であるために一括して、その所在とその概略の説明をここに記しておきたい。すでに知られている少数を除いて、このたびの長柄町史のための資料調査に際して見出されたものが大部分である。4以下は町文化財指定の日時の順にしたがった。
 1 木造不動明王坐像。(飯尾寺蔵)国指定重要文化財。坐高八三・三糎。檜の寄木造り。小いさめの顔は忿怒相であるが、おだやかで気品がある。膝張りが広く、体奥が深く安定感に富む造型である。玉眼・弁髪のはなれた部分、および条帛のたれ下った部分は後世の修補であり、持物・台座は昭和三六年の補作。胎内から昭和三六年の修補に際して三〇、七四七字の不動明王の種字(密教で仏菩薩など各尊を一字で標示した梵語)「カーン」が筆書せられた約一五米の長巻が発見せられ修補せられた。縁起(研究篇「長柄寺社縁起集」所収)によれば飯尾忠久が鎌倉由井ケ浜に発見、源頼朝が堂を建てたが、後飯尾氏の家に伝わり、永正二年の春、飯尾政久の夢に現われ、以後霊験遠近にとどろいたと記してあるが、『飯尾氏系図』には忠久は元禄五年没となっている。像は鎌倉後期の作といわれているが、おそらくはそのころの奉安か。もとこの不動堂は飯尾家の私堂で、明治初年、飯尾寺が廃され、この堂を飯尾寺とした。
2 梵鐘。(眼蔵寺蔵)国指定重要文化財。高さ九一糎、経六二・一糎。弘長四年(一二六四)三月二五日の在銘あり。千葉県における最古の作品。銘文にある広階重永は当時、針ケ谷に居住していた鋳工で、この鐘以後三年の文永三年(一二六六)の作がかって真行寺(山武郡成東町)にあったという。広階氏は河内の鋳工の名族で、鎌倉大仏の鋳造に招かれて関東に来り、以後房総の鋳工はこの長柄町刑部を中心の鋳工の影響下に発展したという。無乳の鐘として有名で、乳のかわり胎蔵界四仏の種子が鋳出してある。眼蔵寺は明治以前は胎蔵寺と称した。寺史については中世の「長柄山胎蔵寺」および近世の「長柄山村」研究篇所収の「胎蔵寺縁起」を参照。
3 神像(刑部・新宮神社蔵)県指定重要文化財。立像二一七糎。平安末期の作か。榧の一木造りで、両腕および両足の下部が損傷している。日本における古神像としては最大。牛頭天王像と推測される。「古代の長柄」の「刑部の神像」を参照。
4 みこおどり。(大津倉・大国主神社氏子による)毎年一〇月九日、秋祭りの時、十二才となった女子によるみこおどりと、小学一年より中学二年までの男子による神楽が奉納されるが、総じて「みこおどり」という。大国主神社は明治以前は甲大(かぶと)明神とよばれた。その舞の手などの詳細は『長柄町の民俗』に報告せられている。女子の奉納は幣束おどり、杓おどり、扇おどりの三種。男子の神楽は十二神楽とよばれているが、十四座の神楽が行なわれる。寛政一二年(一八〇〇)に神楽の面などを新調寄附したという文書(〓岡松樹家文書)があるが、それ以前のことは不明。なお最近茨城県那珂郡大宮町甲神社に室町時代の猿楽面が発見せられ、乾克己博士(和洋女子大学)が、中世東国における猿楽について報告せられているが、(「房総文化」第一四号)同名の神社に何等かの連関があったということも予想され、さらに推測すればこの神楽もその起原は古く中世にまで辿られるかも知れない。長柄町無形文化財の第一号として四七年指定。同年保存会が結成せられた。
5 甲胄。(山根・山根泰次蔵)一領、慶長ごろの製作といわれ、備前・岡山の池田家より伝来といわれているが、委細は不明。甲は蝶の前立三枚錏、胄は胴丸黒革八枚の草摺をたれている。同家にはなおくさりかたびら一着があり、鳥羽伏見の戦いに着用したと伝え、刀による裂傷を示している。鉄扇源吉道作が付属している。
6 鰐口。(味庄・天満宮蔵)径一四五糎。「応永一七年庚寅九月吉日敬白、上総州二宮庄内舟木。山王」とあり。長い間神社の井戸の内側の横穴にかくしてあり、年一度の祭日に取り出したという。もと舟木にあったというが、その伝承については不明。
7 涅槃(ねはん)図。一幅(鴇谷・日輪寺蔵)一九〇×一四三一糎。釈迦入滅図であるが画幅の左側に損傷あり。鎌倉時代中期の作と推測される。日輪寺は願行上人の創建と伝え、本尊は不動明王立像。自刻と伝えるも未詳。
8 真言八祖画像。(鴇谷・日輪寺蔵)八幅。真言宗伝持の八祖である竜猛・竜智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果・空海の画幅。四七×八三・六糎。室町時代中期の筆と推測せられる。千葉県としては八祖画像すべて完全に揃っている中世の画像は他にないという。
9 鰐口。(鴇谷・日輪寺蔵)径三〇糎。寛永十四年(一六三七)の銘文があるが、作風、形態から鎌倉末期ごろまでさかのぼらせてもよいかと篠崎四郎氏は言われている。日輪寺はかつて約五〇〇米現在地より離れた字白山谷にあったが、近世初頭に現地に移転したという。中央の種字(梵字)は薬師をあらわすバイであるから、これはもと薬師堂(明治初年廃)にあったのであろうか。
10 金剛盤・五鈷〓・五鈷鈴。(鴇谷・日輪寺蔵)金剛盤には応永二三年(一四一六)別当慶範律刻の刻銘あり。また前遠江守高親沙弥常吉、前越前守親秀が白山宮に四面仏具・護摩器・錫杖など惣数一〇二を寄進した旨があるが、大多喜町円照寺鐘銘(今亡『千葉県史料・金石文篇一』所載)によれば父子であり、また他の資料から小櫃氏であったことが判明する。形式から考えてこの三点は一具のものではなく、篠崎四郎氏は五鈷鈴・五鈷〓はさらに古く、あるいは鎌倉時代の作かといわれている。小櫃氏については中世篇「小櫃氏と鴇谷」参照。
11 如意輪観音坐像。(鴇谷・日輪寺蔵)もと如意輪寺(茂原市)本尊。酒井氏の改宗強行に際して避難し来れる尊像と伝え、神照寺に安置。昭和二九年合併により日輪寺に安置。
12 二十人連座御影。(大津倉・篠田治江蔵)五四・五×一一九糎。覚如の筆と伝えており、縁起がある。
13 阿弥陀仏画像。(大津倉・篠田治江蔵)親鸞聖人の画くところという。縁起一巻がある。前者と共に明らかに中世の画幅であるが、時代は伝承よりやや降って室町初期か。中世篇「大津倉の親鸞伝説」および縁起は研究篇の「長柄寺社縁起集」におさめてある。
14 阿弥陀仏立像。(大津倉・篠田治江蔵)もと篠田家邸内の小堂の本尊。室町時代の作か。両肩に雲の湧出を現わしており、異風の阿弥陀仏である。あるいは融通念仏宗の教理によるものかとも推測されるが不詳。
15 多賀氏系図。一巻。(船木・多賀大郎蔵)近世の写であるが、多賀氏の由諸を明らかとしている。
16 大身の槍。(船木・多賀大郎蔵)池和田城の落城に際して多賀蔵人の奮戦せし槍と伝う。中世篇「かくれ住んだ人たち」参照。
17 日蓮筆蹟(船木・多賀大郎蔵)多賀家は代々日蓮宗の信者であった。真蹟である旨の日陵の裏書がある。
18 阿弥陀仏坐像。(榎本・長栄寺蔵)もと真福寺にあったという。平安末期の作と見られ、榎本城千代丸榎本之助の菩提寺の本尊という伝承あり。古代篇「真福寺」参照。
19 懸仏。(大津倉・鶴岡松樹蔵)伝来事情は不明であるが、薬師仏であるから、あるいは天王宮と関係あるか。改築に際して、神棚裏の壁の中より出現したという。あるいは明治初年の神仏分離令のころ本地仏であるところから隠匿したものであろうか。鎌倉時代の作と推測される。
20 梵鐘。(飯尾・飯尾寺蔵)寛文四年本納の人、鵜沢右近信重の作。飯尾寺については中世篇「飯尾氏と御小屋城」参照。
21 欄間彫刻。(飯尾・飯尾寺蔵)飯尾寺の欄間にある彫刻三点。共に房州の武志伊八良信由の作。文化十一年二月の作である事が銘文によりて判明する。
22 絵馬「源頼政のぬえ退治の図」(徳増・春日神社蔵・宍倉季麿保管)宍倉氏の先代久兵衛が、江戸において芝居絵の名手、二世清忠に依頼執筆。郷里の神社へ寄進したもの。
23 地蔵菩薩立像。(大津倉・槻木地蔵堂)室町時代の優作。縁起は研究篇「長柄社寺縁起集」にあり。
24 黒須家系図(長柄山・黒須正蔵)近世の写であるが古態を伝えている。古代「長柄とヤマトタケル」及中世篇「千葉秀胤」の各項を参照。

(1)『長生郡郷土誌』に一部分の中略があるが飜刻せられている。
(2)たとえば高木豊『日蓮―その行動と思想』など。
(3)北村敏「伝説に見る日蓮像」(『日蓮宗の諸問題』中尾堯編所収)に多く紹介せられている。
(4)これらの室町初期の光明本尊・先徳列座図像は現存するもの少なく、研究も十分なされていない。特に二十体御影は他に報告せられていない様である。この画幅は、房総における唯一のもので真宗教団の初期の史料として重要であろう。なお研究篇の縁起の成立は近世後期のものである。そのまま信用出来ない。
(5)この書は明治六年以降、内務省地理局の編さんしたものである。なお額の文字をよみあやまるとしたのは推測であろう。おそらくは明治初年の届出に際し、意識的に寺僧の改訂したものではなかろうか。
(6)『長生郡郷土誌』
(7)『黒須系図』秀胤のところに「伝曰、秀胤一人、火煙中ヨリ忍出万木ノ城ニ隠ル。亦成武邑ニ来テ国延領地住」
(8)秀胤の墓と伝うるものが、六地蔵の丘頂にあったが、この丘はいま削平せられてしまった。以前にその墓址に延宝五年の墓碑が立てられていて、誤って平忠常のころの年号を記している。当時、秀胤のことが、胎蔵寺においても不明であったことが推測出来る。またかつて盗掘したものがあったが、その際、出土の甕棺の破片は長柄小学校にある。
(9)あるいはこの長柄町の北に近く旧市津村(市原市)に金剛地がある。これが金剛寺で相対して同時に造られたとも想像するが、その地に寺址があるかどうか。未調査である。なお鎌倉中期の律宗再興にあたり睿尊が関東に布教につとめたがのちに真言律宗となるのであって、密教系である。
(10)従来は辻善之助「安国寺利生塔考」(『日本仏教史之研究』所収)が信ぜられたが、今枝愛真「安国寺利生塔の設立」(『中世禅宗史の研究』所収によって)訂正された。なお胎蔵寺の利生塔については『五山群緇考』に存在したという記事があり『上総町村誌』もふれている。
(11)佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』
(12)佐藤進一『室町幕府守護制度の研究・上』
(13)朝宗の墓は確認出来ない。寺後の墓地の一隅に五輪塔がくずれて、数箇分ある。その一つに応永二二年の銘があるがあるいはそれか。しかしこれらはもと寺前にころがっており、大正の末ごろ、青年たちが力自慢に投げたものを近ごろ一所に集めたという。おそらくは向って右、田の中に塚がある、その遺址であろうか。
(14)篠崎四郎『房総金石文の研究』および『千葉県史料金石文一』丸山瓦全「下野金石志(四)」(史蹟名勝天然記念物三―一)
(15)吉田政芳「幻の豪族小櫃遠江守の探求」(千葉文華九)
(16)大多喜町、あるいは足利市まで、遠くこの鐘が移動していることは、戦乱に際し、陣鐘として利用された故ではなかろうか。なお上野の岩松氏は禅秀の娘婿であり、しばしばその後も持氏に対して反抗している。敗れた小櫃氏は岩松氏をたより、そこで戦死したのではなかろうか。足利の近くにその戦没の伝承地があるという。
(17)坪井良平『日本の梵鐘』『日本古鐘銘集成』などで詳細に説かれている「中世に於ける両総梵鐘の鋳物師」(「日本歴史考古学論叢』所収)は特に重点を刑部において考察している。判り易いものに『梵鐘』がある。