一 徳川氏の関東入国

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 豊臣秀吉は、小田原征伐の後、徳川家康に国替えを命じた。家康は、父祖伝来の地三河と槍先一筋で手に入れた遠江・駿河・甲斐・南信濃を離れ、北条氏の旧領である伊豆・相模・武蔵・上野・上総・下総の六か国に移った。天正一八年(一五九〇)八月一日、関東に移った家康は江戸を根拠地とした。関東といっても、家康入国当時は、安房に里見氏、下野に宇都宮氏、常陸に佐竹氏等の諸大名がいて、文禄三年(一五九四)当時の所領は二四〇万三〇〇〇石ぐらいであった。
 松平氏発祥の地である三河は勿論、着々と領国経営を進めていた駿・遠二国を手放すことは、徳川氏にとってこの上ない苦痛であったと思われるが、憤激する家臣を押えて家康は、黙々として江戸へ移った。これを「江戸御打入り」といい、「八朔(はっさく)の祝賀」(八月一日の祝賀)は、徳川幕府の重要な年中行事となった。
 家康は、関東にはいると急いで知行割(ちぎょうわり)を行った。江戸に近い武蔵・相模などに、徳川氏の直轄地と一万石以下の下級家臣の知行地を集め、万石以上の上級家臣を遠くへ置くようにした。万石以上は四一名で、総石高九四万九〇〇〇石、上総国には、大多喜に本多忠勝一〇万石、久留里に大須賀忠政三万石、佐貫に内藤家長二万石、鳴戸(成東)に石川康通二万石、上総・下総の内に岡部長盛一万二〇〇〇石が配された。(1)
 徳川氏の直轄地は百万石余りであったといわれている。ここには代官を置いて支配させた。代官頭は数名いたが、農政の面で名の知られているのは伊奈備前守忠次である。
 関東入国頭初の郷土の知行形態は不明である。しかし、元禄以降の地元史料から推測すれば、大部分は下級家臣(旗本)への給地であったと思われる。
 きのうまでの敵地、旧北条領に乗り込んだ家康は、家臣への知行割だけでなく、寺社領の安堵や寄進を迅速に行い民心の安定をはかった。天正一九年(一五九一)一一月、七里法華の中心である土気の本寿寺へ三〇石の寄進をしている。(2)茂原市藻原寺にも「権現様御朱印写」が蔵されている。睦沢村寺崎の歓喜寺には、九通の朱印状が蔵されているが、それは三代将軍家光以降のものである。(3)郷土長柄においては長柄山の胎(眼)蔵寺領は二〇石、鴇谷の日輪寺領一三石五斗、同じく妙泉寺観音堂領五石の朱印地があり、日輪寺には貞享二年(一六八五)、享保三年(一七一八)の実大の写しがあり、日輪寺の「御朱印寫」には慶安二年(一六四九)以降九通が妙泉寺観音堂分九通と共にその写しがあって、巻末にこれらは明治元年十一月長南知県事芝山文平のもとに提出したことが記されている。若い頃、三河で一向一揆に悩まされた家康は、寺院対策に特に心を配ったとの見方もできる。信仰心の篤かった当時においては、それは、民心安定の基本でもあった。その反面、北条氏に属していた土豪は容〓なく討伐した。
 広大な関東の領国経営に意を注いだ結果、家康は他の大名と比べものにならない程の実力を蓄えた。