慶長三年(一五九八)八月一八日、秀吉が世を去った。武力・経済力・政治力等あらゆる面で諸大名を圧倒していた家康は、容易に「天下人」への道を歩み始めた。一般的に、慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の戦いを、「天下分け目の戦い」というが、その前年から、世人は既に家康を「天下殿」と呼び、政界は家康の独り舞台であった。関ケ原の合戦は、だめ押しに過ぎない。
関ケ原の決戦に快勝した家康は、豊臣秀頼母子のいる大坂城に乗り込み、名実共に覇権は成立した。戦後の処理において、多くの大名の所領を没収し、再配分し、大幅な国替えを断行したことは、軍事的統帥者であるだけでなく、中央政権の主権者となったことを示している。
慶長八年(一六〇三)二月一二日、征夷大将軍に任ぜられたことにより覇権は完結した。幕府は江戸に開かれ、後進地域関東は一躍政治の中心地となった。江戸築城に当っては、諸大名に軍役が課され、将軍家の威勢は天下を圧した。大坂城の秀頼は、六二万石の一大名に過ぎず、元和元年(一六一五)五月八日、滅ぶべくして滅んだ。