封建制度は、武士階級が土地を占有し、各地方に割拠して発展してきた。
鎌倉時代の武士階級は、将軍と主徒関係を結んだ御家人が中心であったが、なおその外にあって自立する武士も少なくなかった。そして、血縁により強固な族団をつくり、惣領(そうりょう)の下に一族の者が結集し、土地に密着した生活を送っていた。将軍直属の御家人でさえも、御恩と奉公という主従関係はあったものの、きわめて分権的色彩が強く、また公家や大寺社の荘園も各地に残存し、幕府の威令も全国津々浦々にまで及ぶものでなかった。
建武の中興の成立、崩壊の過程において、武士勢力は大きく躍進した。朝廷・公家・寺社の荘園は、この過程においてほとんど武家領と化した。その結果、元来は国々の警備の任を持っていた守護が、その職権と実力により、各分国に大名として勢力をはり、更に土地の併呑を進めたので、国々の武士は、これら守護大名に従属する状態となった。領国支配の規模が拡大すると、血縁関係よりも地域的な服属関係が強くなっていった。
このように、守護大名の勢力は強大になったが、一般に国侍の土着性はまだ強く、荘園の遺制も残っていたので、関接支配が普通であった。これら守護大名を糾合して、その支持の上に武家政権を樹立したのが室町幕府である。室町幕府の威令は、一応全国に及ぶようになったが、守護大名の自立性はなお強く、幕府の統制力は相対的に弱かった。
一方、守護大名も一円知行への道は遠かった。領国内の公家・寺社勢力との闘い、国侍の懐柔を通して徐々に武家領は拡大したが、一円知行することはできなかった。この間、土地に密着して力を蓄えていたのは、守護大名の分国内に居住する国侍や名主(みょうしゅ)層であった。彼らは、村落と住民を完全に支配し、強固な所領に拠って勢力を拡大し、ついに一個独立の領主となった。この新領主が戦国大名として成長していくのである。
戦国大名の領国支配は一円知行への方向をとり、分国法の制定、産業開発などを進め、地域政権としての性格を備えるようになったが、その支配は、なお流動的であり、戦乱の中に興亡が目まぐるしかった。
織豊政権の成立は、戦国の争乱に終止符を打ち、戦国大名も中央政権の統制を受け、ここに近世大名が出現した。江戸時代における幕藩体制の原型は、この時代に成立した。
徳川氏は、実力によって諸大名を征服したので、覇者の権力は比類なく強大であった。この強大な権力により諸大名の領主権は保障され、領主は、その保障の下に藩の組織を整え、大名知行制が確立された。反面、強大な中央権力は、容易に領地の没収や配置替えを行うことができた。従って、土地に密着して勢力を蓄えることは不可能となった。江戸幕府は、一応諸大名の封建的支配を認めながら、その威令は全国にくまなく及んだ。
強大な中央統一政権である江戸幕府と、その支配下にありながら独立の領国をもつ藩とを統治機関とした政治体制を幕藩体制と称する。