四 大名と旗本

135 ~ 140 / 699ページ
 江戸幕府は、その初期約八〇年間に、親藩・譜代・外様を問わず、しきりに諸大名の改易、移封を行い、幕府の絶対的権力を天下に誇示した。その間、徳川氏の所領は次第に増加した。これが、ほぼ一定したのは元禄時代である。享保の調査によれば、徳川氏の石高は六八〇万石、その内蔵入地(くらいりち)四二〇万石(六二%)旗本知行地二六〇万石(三八%)である。明治初年の調査では七〇六万石となっている。全国の石高を三〇〇〇万石余りとみて三〇%を越え、それに親藩領を加えれば徳川一族の所領は広大なものとなった。
 蔵入地(御料所または天領)約四〇〇万石の内、関東地方に一〇〇万石余りが集中していた。
 旗本知行地も一〇〇万石余りが関東にあった。これは、徳川氏の家臣への給地であるから、幕府領は、関東地方だけで二〇〇万石以上あったわけである。
 大名とは一万石以上の領主をいう。
 大名の数は時代によって異なるが、大体二六〇から二七〇ぐらいの間を上下していた。大名は、徳川氏との縁故によって親藩・譜代・外様に大別されている。譜代・外様の大名は、城地の有無、領地の大小により国持・国持並・城持・城持並・無城の五階級に分かれていた。国持とは一国以上の大領地を持つ大名、国持並はこれに準ずる大名であるが、必ずしも一国以上の領有ということでなく、一種の格式でもあった。城持は中級の大名で城地を構えるもの、城持並は陣屋住いながら城持大名の格式を許されたものである。
 郷土にも大名領は若干あった。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳に、山根村・桜谷村に松平左兵衛門督の領分が記載されている。文政七年(一八二四)の山根村と茂原村の助郷争論の文書に、松平弾正大弼領分二一一石とある。旧高旧領取調帳では、桜谷村吉井藩二二五石八斗三升五合、山根村吉井藩二一一石五斗三升九合、大庭村鶴牧藩一一石九斗六升とある。大名領は、きわめて少なかった。
 吉井藩とは、現在の群馬県多野郡吉井町に陣屋を構えた松平氏一万石のことである。鶴牧藩とは、安房国北条に本拠をもっていた水野氏一万五千石が、文政一〇年(一八二七)五月市原郡椎津村に移り、ここを鶴牧と改めたことより始まる。水野氏は、その領分の半分に近い七千石を丹波国氷上郡その他にもっていた。
 郷土近隣の大名領として著名なのは大多喜である。家康の関東入国と同時に本多忠勝一〇万石が封ぜられたが、その後領主は瀕りと交替した。いずれも譜代の小大名であるが、元和三年(一六一七)入封の阿部正次三万石や寛文四年(一六六四)移封の久世広之四万石などが有名である。元禄一六年(一七〇三)松平氏二万石が封ぜられ、以来九代にわたり大多喜城を受け継いだ。幕末改姓して大河内氏となった。
 一宮藩加納氏は、享保一一年(一七二六)八千石の加増を受けて大名に列し、八代将軍吉宗の御側(おそば)に出仕している。加納遠江守久通である。孫の遠江守久周(ひさのり)は、寛政八年(一七九六)上州において三千石を加増され、合わせて一万三千石(4)となった。大多喜松平氏は小高ながら城地をもっていたが、加納氏は陣屋構えであった。
 郷土の大部分を支配していたのは旗本である。旗本は御家人(ごけにん)とともに直参(じきさん)と呼ばれ、将軍直属の士であった。直参の数は、時代によって増減したが、享保期を例にとると旗本約五二〇〇人余、御家人約一万七〇〇〇人余、合わせて二万二五〇〇人ほどであった。旗本の知行高は万石以下百石内外以上である。旗本武鑑によると、千石以上六七六名、五百石以上六二一名、百石以上三〇九七名、百石以下七六六名、不詳四名、計五一六七名(5)となっている。
 旗本の知行は、普通知行すべき場所が指定され、知行所から直接年貢を徴収した。いわゆる地方知行(ぢがたちぎょう)である。三千石以上の大身ともなると、大名を小規模にしたような支配組織をもち、家老・用人・近習(きんじゅう)・小姓(こしょう)その他の諸役人、徒士(かち)・足軽などを在所(ざいしょ)・江戸ともに百人余も抱え、在所には陣屋・侍屋敷・米蔵・牢獄などもあって家臣が駐在し、江戸常住の主人のために知行所を支配した。小身の知行所は、年貢収納を行うことは少なく、その支配は幕府の地方役人が代って行い、幕府の米蔵から知行所相当の現米を受け取る蔵前知行という形態がとられた。幕末に至ると、大身の者でも年貢収納を幕府の地方役人に任せるか、土地の有力者を代官として財務を委任する者がふえてきた。しかし、旗本の知行形態は、原則として土地を実際支配する地方知行がたてまえであった。郷土の場合は、ほとんど旗本の知行所であったが、史料でみる限り直接地頭用所から年貢割付状が出され、また、皆済(かいさい)目録も地頭用所発行のものであり、年貢徴収を他に委任した形跡は認められない。
 御家人は、僅かな上級の知行取りを除いて、大部分は切米(きりまい)・扶持方(ふちかた)と呼ばれる現米・現金の支給を受けていた。切米百俵といえば、年に現米百俵の収入である。扶持方は、一人一日五合の割合で扶持を受けるものである。五両一人扶持とは、一年に現金で五両と一日米五合の収入をいう。年に一八斗二升五合である。御家人は、将軍への目通りが許されなかった。
 御家人は、切米・扶持方であったので、郷土との支配関係はない。郷土に知行地をもった旗本は、五百石以上の中士・上士が多い。しかし、郷土長柄町の知行高を合計してみても、その禄高はわからない。極端な分散知行で、その采地(さいち)は各国・各郡に散在しているからである。
 天保九年、山根村年番名主庄兵衛の記録した「御巡見諸御用日記」(6)に、上総国長柄郡山根村村高調書がある。
松平弾正大弼高壱万石内弐百拾壱石五斗三升九合
筑紫右近高三千石内百弐拾壱石九斗三升九合四勺
水野出雲守高弐千五百石内弐百四拾四石五斗六升八合
戸塚備前守高千弐百石内四拾七石壱斗六升
水野左衛門高五百石内五拾七石壱斗八升六合
曲淵藤次郎高五百石内九拾七石三斗四升三合弐勺
 
 松平弾正大弼は大名であるが、他は中堅以上の旗本である。内何石というのが、山根村にある知行所の石高である。高三千石の大身筑紫右近も、山根村には一二一石余りしかもっていない。
 舟木村に二〇石余りの采地をもつ旗本曲淵甲斐守(曲淵藤次郎とは別家)は、長柄・埴生両郡だけでも六か村に知行所を有している。曲淵氏は、寛延期に勘定奉行として活躍し、その家禄は二〇五〇石である。長柄・埴生両郡の高は六四五石余りであるから、その他の知行所は各国各郡は散在していたものと思われる。同じく舟木村に五四石余りの知行所をもつ市岡左膳は、郷土史料に散見されるだけでも、埴生郡棚毛(たなげ)村、下小野田(しもおのだ)村、市原郡大桶(おおおけ)村、吉沢(きちざわ)村に知行所を有した七百石取りの・中堅旗本で、寛政期に書院番に出仕している。天保九年、上総国巡見添使として多くの史料に名を残している内藤源助は、高八五〇石、書院番に列し、埴生郡岩川村に采地をもっていた。同じく巡見本使安藤次右衛門は御使番高二五四〇石の大身で、その采地が埴生郡中原村にあった。
郷土に散在する旗本曲淵氏の知行所(旧高旧領取調帳)
郷土に散財する旗本曲淵氏の知行所(旧高旧領取調帳)
村名現市町村石   高
粟生野村茂原市145石4斗4升3合4勺
渋谷村同上165〃6〃7〃1〃0〃
真名村同上183〃4〃8〃9〃5〃
千手堂村長南町111〃3〃4〃7〃4〃
舟木村長柄町20〃0〃4〃6〃0〃
立鳥村同上29〃4〃5〃3〃0〃
645〃5〃5〃0〃3〃

 このように、上士の旗本や書院番、小姓組などの役職についた五百石以上の中堅旗本が郷土の主たる支配者であった。その支配の形態は、典型的な分散知行で、且、領主として知行所に顔を出すこともなく、村役人を通して年貢を徴収し、江戸において純消費生活を送っていたので、一般的に知行所村々との結びつきは薄かった。
 旗本の知行を村側からみると、一村全域支配と分割支配とに分けられる。寛政五年(一七九三)、郷土二七か村の内、単独支配は一三か村で、他の一四か村は、二人以上の支配者をもっていた。(7)刑部村は、寛政五年には六給であったのが、幕末には一〇給に細分されている。皿木村は、僅か四〇石余りの小村であるのに三給に分割されていた。この細分された給地は、禄高の調整、加増などによるものと思われるが、領主と知行所の遊離に拍車をかけるものであった。
 旗本は、禄高の上では万石以下に限られていたが、家柄や職柄に依れば、大名と同じように四位・五位の位とこれに相当する朝官名を称することができた。山根・桜谷両村地頭の水野伯耆守、皿木村地頭の本郷大和守、田代村地頭の水野若狹守、針ケ谷村地頭の大井信濃守、小榎本村地頭の加藤伯耆守などがその例(8)である。このような栄誉は、徳川三家と加賀前田家の老臣の外は、大名の家臣には許されないものであった。その上、将軍家直参(じきさん)として御目見(おめみえ)も許され、高い気位をもっていた。
 しかし、江戸幕府が財政的危機に陥ると、まともにその影響を受けたのも旗本であった。いかに誇高い家柄と、将軍家麾下(きか)としての気位をもっていても、少禄のため生活は困窮の一途をたどった。その際、幕府の役職に就けば百俵・二百俵と役料が与えられた。例えば、江戸町奉行や勘定奉行は、家禄三千石以下の者は三千石に引きあげられ、その任期中は役料七百俵が給された。天領を支配する代官は、一五〇俵高の小身者であるが、支配地の広狹により三百俵から三千俵の役料が給された。代官の場合は、この役料から手付・手代の給料を支払ったのであるが、いずれにしても公職に就けば収入が増し、権力の座を得られるので、就職運動は猛烈であった。しかし、役職には定員がある。無役の者で三千石以上は寄合(よりあい)に、以下は小普請(こぶしん)に属させられた。
 旗本は、元来は将軍直属の戦闘集団で、その武力の強大さを誇っていたが、太平の世が続くにつれて能吏型が重用されるようになった。これは、本質の喪失であり、旗本の堕落につながった。
註(1)千葉県史明治編による。
 (2)天正十九年辛卯十一月日
    寄進本寿寺
   上総国山辺郡土気本郷内参拾石事
   右令寄附訖殊寺中可為不入者也 仍如件
                福徳印
 (3)上総国長柄郡寺崎村歓喜寺領
   同村之内拾石事任先規寄附之畢
   全可収納并寺中竹木諸役等免除如有来
   永不可有相違者也
     慶安二年八月廿四日
 
         (朱印)
 
 (4)恩栄録による。
 (5)伊東多三郎・幕藩体制による。
 (6)山根 大和久忠敬家蔵
 (7)上総国村高帳による。
 (8)同右