江戸時代において、村の規模を示すものは地積(ひろさ)でなく石高(とれだか)であった。石高を定めるには、土地を調査する必要がある。これを検地といった。田畑を一枚ごとに測量し、上中下の品等をつけ、一反歩からの得米を算定したものを石盛(こくもり)という。この得米を集計したものを石高といった。一村の合計を村高、一国の合計を国高という。石高は、原則として田・畑・屋敷地につけられ、山林・原野は除かれた。山林・原野でも、特に収得の多いものは、山高・野高として石高に算入される場合もあるが、長柄ではいまだその例を見出せない。
石高の起源は詳かでない。『地方凡例録(ぢがたはんれいろく)』によれば、天正・文禄間、豊臣秀吉の検地より始った、とある。