2 太閤検地

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 続いて秀吉は、より徹底した検地を行った。天正一一年(一五八三)賤ケ嶽(しずがたけ)の戦いに大勝し、国分(くにわけ)・城割(しろわり)を行ったころから、検地に対する新しい考えを打出している。即ち、年貢を納める者が耕作権を持つものとし、検地帳に実際の耕作者の名前を登録することとした。これが帳附百姓である。この帳附百姓については、学界でもいろいろ論議されている。そのひとつに、「太閤検地は小農民自立政策の現れである。」とするものがある。しかし、農民にも多くの階層がある。土豪的な大中の土地所有者もあれば、小地主もある。名子(なご)・被官(ひかん)といわれた従属的農民もあれば使役されている下人(げにん)もある。このどれが検地帳に登録されたかもじゅうぶんに解明されていない。秀吉が検地に当って各地に出した布令の中に、「長(おとな)百姓が下作百姓に作らせて作合(さくあい)を取ってはならない」とか、「耕作している者が直接年貢を納めるようにせよ。」といった趣旨のものがあるので、農民の自立政策を促すねらいはあったであろうが、より直接的なねらいは、中間搾取者を排除して年貢の増収を図ること、賦役労働の提供者を多くすることにあった、とする見方が一般的である。

文禄3年検地帳(刑部 池座竜一家蔵)

 天正一九年(一五九一)徳川家康は上総の検地を行った。茂原市北塚区に、同年の「上総国弐宮庄渋屋之郷之内北塚村御繩打水帳」が蔵されているが、天正年間のものは長柄町にはなく、文禄となってから検地が行われたらしく、この長柄町内から発見された最古の検地帳は、文禄三年(一五九四)八月のものである。『上総国長南領刑部郷御繩打之水帳』全一一帖が完全にそろっている。刑部では文禄三年八月二一日から二七日にかけて、二組に分かれて検地したらしく、短期間に膨大な検地帳を作成している。この水帳には、案内者・筆記者・立会人の名はあるが、検地役人の名が欠けている。形式は古いものであるが印がないので、控えのため筆写されたものであろう。「長南領刑部郷」という呼称も、中世末期長南武田氏の支配下にあった名残りを示している。山之郷村の正保四年(一六四七)の年貢割付状には「千葉領」とあり、これらからさかのぼって中世の支配関係を推察できる。次に、文禄検地帳の一部を抜き書きし考察を加えてみたい。
 この検地帳には、田畑一筆ごと、縦横の間数、品等、所有者、耕作者が記入されている。こまかく検討すると、刑部郷八五〇石余りの田畑屋敷地がすべて新兵衛、四郎兵衛、三郎兵衛、内蔵助、蔵助の持分であった。内蔵助と蔵助の発音は同じとも考えられるので、これは同一人かもしれない。他に五郎左衛門分というのがあるが、その持分は僅かである。前記蔵助と内蔵助が同一人とすると、刑部郷の田畑屋敷地は、ほとんど四人によって占められていたことになる。六〇人余りの百姓は、五郎左衛門を除いて全員分附百姓であった。これは中世の社会構成そのままであり、僅か四人の名主(みょうしゅ)層に全住民が服従していたことになる。殊に、四郎兵衛、三郎兵衛、新兵衛の持分は、全一一帖に漏れなく記載され、その所有田畑は各谷々(やつやつ)に散在している。その所有面積からみて、刑部郷最高の実力者は新兵衛と三郎兵衛であったように思える。
 
四拾間 拾七間   いなげ谷  下田 弐反弐畝弐拾歩    四郎兵衛分 四右衛門作
三間 弐間     同所    下田 六歩         同分    七郎右衛門作
四拾九間 拾三間  びゃく下  下田 弐反壱畝七歩     蔵助分   六郎兵衛作
弐拾四間 九間半  ミゃうが沢 下畑 七畝拾八歩      三郎兵衛分 与三右衛門作
拾間 八間     たきじり  下畑 弐畝弐拾歩      新兵衛分  与惣右衛門作
拾四間 八間    とりこへ  中田 三畝弐拾弐歩     同分    三郎左衛門作
四拾三間 弐拾弐間 志もだ   上田 三反壱畝拾六歩    同分    主作
弐拾弐間 七間   嶋田前   上畑 五畝四歩       新兵衛分  兵庫作
 
 屋敷水帳を見ると次記のようなものがある。
 
弐拾八間 拾七間           壱反五畝弐拾六歩   四郎兵衛分 新右衛門居
弐拾五間 弐拾三間半         壱反九畝拾八歩    三郎兵衛分 竜円坊居
弐拾壱間 九間半           六畝弐拾歩      三郎兵衛分 出雲居
八間 四間              壱畝弐歩       同分    出雲居
弐拾間 拾七間半           壱反壱畝弐拾歩    同分    出雲居
弐拾間半 拾八間           壱反弐畝九歩     同分    出雲居
 
 多くの百姓が、一畝ないし四畝の屋敷地しかないのに、広大な屋敷や数か所の屋敷をもつ者がある。名主(みょうしゅ)に従属するといっても、一族譜代から名子・被官といわれる者まであり、その間に階層があった。従って、階層的に上位にある者は、更に名子や下人を抱えて耕作させ、その屋敷内に住居を与えいたものと考えられる。分附百姓新右衛門の屋敷一反五畝余は、百姓の宅地としては広大である。竜円坊の一反九畝余りは信仰の対象であるからうなずけるが、出雲なる人物はどんな存在であったのであろうか。屋敷を四か所も持ち、合計面積が三反五畝を越えている。
 文禄検地帳に登載された百姓は六〇人余りであるが、近世初期の刑部村家数一六〇軒余と比較して余りにも少ない。おそらく、検地帳に登録されない第二次的従属百姓が、分附百姓ではあるが経営規模の大きい百姓に抱えられていたものであろう。
 分附百姓の名前をみると百姓らしからぬ者が多い。出雲・玄蕃・治部・兵庫・隼人・左京助・内匠助など、どう考えても武士の名である。中世の兵農一致の姿を示すもので、後にこの名称が法令で制限されるようになる。また、寺院や行者のようなものも非常に多い。月輪寺・勝蔵寺(正蔵寺)慈眼寺(慈源寺)正福寺・雲長院(雲頂院)・勝明院(照明院)東泉院・金剛院・善如院・泉光院・宝珠院・正善院・盍(こう)源坊・竜円坊・道盍・一円などである。この寺院の中には今に残るものも多い。名前を書かずに定使(じょうづかい)・神主と書いてあるものもある。定使とは、荘園領主の雑仕で、庄官との間を往復して命令の伝達や報告などの任に当る者で、近世になると庄屋・名主の指示で一般農民に触(ふれ)を告げて歩く者を指すようになり、村入用(村の経費)をもって雇われたのであるが、文禄期の刑部では一反六畝の屋敷に住み、重きをなしていた。「ちゃせん」というのもある。空也聖(ひじり)といわれたちゃせん売りが刑部に定住したものであろうか。「兼船(かねふね)」というのがあるが、遊芸人を思わせる名である。次に、刑部郷の総反別、総石高を示してみる。
   文禄三年検地帳刑部郷高辻(たかつじ)
 
  上田合弐拾四町三反五畝九歩   盛(もり) 十一
   此分米(ぶまい)弐百六拾七石八斗五升九合九勺
  中田合拾九町五反弐畝弐拾三歩  盛 九ツ
   此分米百七拾五石七斗七勺
  下田合弐拾八町四反壱畝四歩   盛 六ツ
   此分米百七拾石四斗四升六合弐勺
  田方合七拾弐町弐反九畝六歩
   此高六百拾四石六合八勺四才
    内五拾壱石九斗三升四合九勺八才
     但シ百石ニ付八石四斗六升ツヽ歩免ニ引
   残而(のこして)五百六拾弐石七升壱合八勺六才
  上畑合拾三町七畝拾弐歩     盛 七ツ
   此分米九拾壱石四斗九升八合四勺
  中畑合拾四町弐反五畝弐歩    盛 四ツ
   此分米五拾七石四合八勺
  下畑合拾七町七反八畝三歩    盛 弐ツ
   此分米三拾五石五斗六升六勺
  屋敷合五町三反八畝八歩     盛 十
   此分米五拾三石八斗八合
  畑方合五拾町四反九畝五歩
   内弐拾五石五斗八合五勺三才  歩免ニ引
   残而弐百拾弐石三斗六升弐勺七才
 
  田畑合百弐拾弐町七反八畝拾壱歩
  高合八百五拾壱石八斗七升八合六勺四才
   内七拾七石四斗四升三合五勺壱才  歩免ニ引
  残而
    七百七拾四石四斗三升五合壱勺三才 取高
 
文禄三年検地帳にみる刑部郷小字名
 
たきじり(滝尻)・とりこへ・志もだ・がうじ谷
さんきょ谷・大田ぎれ・大じか(大鹿)・いかん坊
むかいだ・志っかご・とくらだ・びゃく下・むかい
しのあみ・志ゅく・てうもり(長森)・岩さき
はしど・さくらだ・大きゅう谷・きて森・すすたけ
志保から・ゑそが谷・さくつか・よりやど・辻まへ
志ゃうしまへ・大せき・わきした・小田ぎれ(小田切)
中みぞ・志ゃうどう・とさき(とっさき)・とのべた
なんがう・小やま(小山)・かごた・たかだ
阿しとの谷・大びゃく・はっさき・どんめんた
いなげ谷・みゃうが沢・いづミ谷・志〓が沢・おにだ
四郎太谷・ゑぎ谷・内河・京ァ谷・はし本・いなつか
なんざわ・嶋田前・新宮どう
 
 高辻(つじ)八五一石余は、幕末の八五八石余とほとんど変わらないが、このことは刑部村では、文禄期以降の開発がほとんどなかったことを示している。検地帳に「当ひらきの分」として、「おにだ・四郎太谷・志〓が沢・めうが沢・ゑぎ谷・岡なり」などの地名と反別が書きあげられているが、この時点で相当奥地まで開発し尽されてしまったのである。「歩免ニ引」というのは、現代の基礎控除に類するものであろうか。取高七七四石余が課税高である。
 明治になってから、政府による全国的地誌の編さんが為されたとき、この文禄検地帳も引き出され、その地名が『水上村沿革史』、に引き写されている。前頁に小字名を掲げてみたが、今も用いられている地名が多い。万物流転の中で不変なものは地名であることを語っている。
 江戸時代になってからも検地は時々なされたが、古検地の比重はきわめて重い。この検地における石盛の取高が上田で十一、つまり、上田一反歩につき一石一斗の収得があるという認定であるが、刑部村に関しては、この基準が江戸期を通してほとんど変っていない。他村では、上田の盛十五というところもあるが、刑部村はきわめて低くおさえられている。
 文禄検地帳の土豪的な数名の大土地所有者は、幕藩体制の下で漸次消滅し、新しく登録された帳附百姓が本百姓として次第に独立していった。
 天正一三年(一五八五)から慶長三年(一五九八)の間、秀吉の指令によりなされた検地を「太閤検地」という。この場合、家康がその領国に実施したものも同様に呼ばれる。太閤検地は、方六尺三寸を一歩、三〇歩を一段とした。

検地の図(徳川幕府県治要略)