関ケ原の合戦後、家康は大々的な検地を実施したが、その基準の変化は少なかった。慶安二年(一六四九)に、検地条目が定められるに及んで基準の大改革があり、方六尺一分が一歩と定められた。当然石高はふえ、貢租の増額となった。その後幕府は、享保一一年(一七二六)に詳細な検地条目を制定している。
近世の検地は、ふつう村方より地引帳(ぢびきちょう)と地引絵図を提出させ、検地奉行の指揮の下に竿取(さおとり)一行が現地に赴き測量した。検地竿は二間竿で、その両端を銅で張って鋲(びょう)で止め、一尺ごとに印をつけた。また、百聞の繩を使うこともあったが、その繩は苧(お)繩(苧麻(ちょま)の皮をよった繩)で、柿渋を引いて延び縮みを防いだ。丈量することを、「繩打(なわうち)」とか「竿入(さおいれ)」というのは、このためである。
検地とは、単に土地の面積を丈量するだけでなく、田畑に等級をつけ、石盛を定めることである。石高というと米の枡目を示すものであるが、大庭村高二六〇石といった場合、畑の生産高も米に換算され、屋敷地にも石盛がつけられ、その合計が村高となって課税や夫役(ぶやく)の基礎となった。
検地により定められた石高は、大名や旗本の勢力や格式の基準となるので、無断で変更することは許されない。田畑の欠損や新田畑の開発があっても、本来の石高は表向きには残しておいた。年貢割付状に、「永荒地(えいあれち)」や「川欠(かわかけ)」として年貢が免除されている高も削除されることなく毎年書き上げられている。また、新開発地は、本高とは別に「新田何斗何升」と書かれている。実際に年貢を徴収するか、免除するかは別として、検地により定められた石高は、新検地が実施された後でなければ変えることができなかった。