舟木村では、天和以降ほとんど耕地がふえていない。享和二年の刑部村村高村柄等書上帳に「元禄年中御改メ高……云々」という記載があるが、元禄郷帳作制のための調査と考えられる。明治一九年三月から起草した田代村・刑部村・金谷村の「地誌編纂材料調査控」(2)によると、田代村には宝永四年九月二六日の検地帳が、金谷村には慶安三年八月二三日、二四日の検地帳があり、地積や石高、小字名まで転記されているが、今回の史料調査では検地帳を発見できなかった。
刑部村名寄帳(刑部 池座竜一家蔵)
舟木村水帳写(舟木 矢部泰助家蔵)
宝暦一一年(一七六一)の針ケ谷村差出明細帳(3)に、村発生の「年号何年ニ成り申し候哉相知レ申さず候御検地の儀も同断」とあり、「御水帳御座無候」と記されているように、江戸中期、既に検地帳が保管されていない村が多かった。村役人の実務は、名寄(なよせ)帳によって処理されていたのである。刑部村村高村柄等書上帳(4)に「御検地帳御座無候 文禄三年之名寄帳御座候」とあるように、百姓個人別に田畑が集約されている名寄帳の方が重宝であった。この記録を頼りに、文禄の名寄帳をさがしたが、遂に発見できなかった。
検地帳の正本は見つからなかったが、写しは何冊か残されている。そのうち、小榎本村水帳は、小字名、間数、畝歩、所有者名を記した古い形式のものであるが、これも所有者別に田畑をまとめた名寄帳形式に書替えられている。享保一〇年の舟木村水帳写(5)は次のような形になっている。
十兵衛
内膳分
五反目
一上田 九畝三歩
谷前
一上田 三畝弐拾五歩
八反目前
一上田 五畝四歩
同所
一上田 弐歩
志のぎ谷
一中田 六歩
わき田
一中田 弐反廿壱歩
大ぎゅう
一下田 弐反弐畝拾八歩
小谷
一中畑 壱反弐畝廿歩
志のぎ谷
一中畑 三畝廿弐歩
志のぎ谷
一中畑 弐畝歩
大滝谷
一中畑 弐畝拾弐歩
池ノ谷
一中畑 壱畝弐歩
川戸
一下畑 四畝八歩
小谷
一下畑 弐畝四歩
志のぎ谷
一下畑 弐歩
同所
一下畑 八畝拾弐歩
一屋敷 八畝廿九歩
一屋敷 九畝拾三歩
寛延四辛未八月より 改出シ
(以下略)
検地帳には、田畑を片はしから一枚ずつ丈量していくので、耕作者名はばらばらに記載されている。従って、舟木村検地帳は既に名寄帳となっている。名寄帳は、租税や諸役、村入用などの賦課のため、村役人が検地帳に基づいて作った所有者別反別帳である。ただ、舟木村検地帳の内膳分という記載に古い面影を残している。内膳とはいかなる人物か、多賀系図によれば、「永禄七年五月九日落城した池和田城(6)主多賀蔵人の嫡男が、舟木郷八反目に逃れて郷士となった」とある。内膳分とは、多賀内膳の名田であったという意であろう。内膳分
五反目
一上田 九畝三歩
谷前
一上田 三畝弐拾五歩
八反目前
一上田 五畝四歩
同所
一上田 弐歩
志のぎ谷
一中田 六歩
わき田
一中田 弐反廿壱歩
大ぎゅう
一下田 弐反弐畝拾八歩
小谷
一中畑 壱反弐畝廿歩
志のぎ谷
一中畑 三畝廿弐歩
志のぎ谷
一中畑 弐畝歩
大滝谷
一中畑 弐畝拾弐歩
池ノ谷
一中畑 壱畝弐歩
川戸
一下畑 四畝八歩
小谷
一下畑 弐畝四歩
志のぎ谷
一下畑 弐歩
同所
一下畑 八畝拾弐歩
一屋敷 八畝廿九歩
一屋敷 九畝拾三歩
寛延四辛未八月より 改出シ
(以下略)
貞享4年 小榎本村水帳写(小榎本 前田政之丞家蔵)
等 級 出 典 | 上 田 | 中 田 | 下 田 | 上 畑 | 中 畑 | 下 畑 | 下 々 畑 | 屋 敷 | 新 田 | 新 畑 | ||
江戸時代標準石盛 | 15 | 13 | 11 | 13 | 11 | 9 | 13 | |||||
立鳥村明細差出帳(宝暦元年) | 15 | 12 | 7 | 9 | 6 | 3 | 10 | |||||
舟木村高辻差出目録(宝永6年) | 15 | 12 | 7 | 9 | 6 | 3 | 10 | 6 | 2.5 | |||
針ヶ谷村三給明細帳(寛政5年) | 代官所 | 15 | 12 | 9 | 9 | 5 | 3 | 16 | ||||
岡部給 | 15 | 13 | 10 | 10 | 8 | 5 | 3 | 11 | ||||
大井給 | 15 | 12 | 9 | 9 | 5 | 3 | 3 | 16 | ||||
刑部村村高村柄等書上帳(享和2年) | 11 | 9 | 6 | 7 | 4 | 2 | 10 | |||||
石 盛 表 | 立鳥村明細差出帳 (大野弘司家文書) 舟木村高辻差出目録 (矢部泰助家文書) 針ヶ谷村三給明細帳 (小倉正男家文書) 刑部村村高村柄等書上帳 (内藤正雄家文書) |