[長柄町の石高と支配の概要]

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 長柄郡は、元禄一五年(一七〇二)の上総国郷帳によれば、総石高五万五五四六石八斗三升一合八勺、村数一二四ケ村となっている。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では、高六万一〇九五石六斗三升七合三勺、家数九八八五軒、村数を数えてみると一五一ケ村となる。この間、石高・村数とも著しく増加しているが、長柄郡、埴生郡の境がはっきりせず、数字的にも若干疑問がある。しかし、享保年間の有名な千町野(現茂原市)の開発をはじめ、郡内各地の開発が進められたので、石高や新田村がふえたことは事実である。
 長柄郡全体の増加に比べ郷土長柄町は、新田村がひとつもふえず、石高の増加も僅かである。左表のように、元禄、寛政の間に百石余りふえているが、百年間の百石増であるから僅かなものである。明治になってからの取調高には寺社の除地(じょち)(免租地)や改増が含まれ、また徳増村に七四石ほどの誤記があるように思えるので、実質的には寛政五年の石高と大差がない。勿論、村数もふえていない。元禄以前の史料がないので、近世初期の開発状況はわからない。「新田」という屋号をもつ家が何軒かあるので、ある時代に新田畑が拓かれたことは確かであるが、元禄以降に大きな開発がなされたという史料は発見できなかった。切添(きりぞえ)により僅かに耕地がふえた程度である。郷土史料に、道脇寺新田ということばが使われているが、その開発の年代も明らかでない。中世の新田のように思える。郷土の村々は古い村で、安定はしていたが、やや活気に乏しかったような印象を受ける。
 長柄町の石高は九千石余りであるから、一万石の大名領分を想起するのに最適である。一万石の大名領分とは、現在の長柄町と、長南町へ編入された笠森・深沢の両区を加えたぐらいの規模である。
長柄町の石高の変遷
長柄町の石高の変遷
年 代 及 び 出 典石      高
上総国郷帳(元禄15年)斗升合勺才
9087石 3 3 9 3 7
上総国村高帳(寛政5年)9193石 5 0 8 3 6
旧高旧領取調帳(維新直前)9354石 4 5 6 3 6