3 村と村との関係

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 現在の長柄町内の各区は、行政的に一体となっている。しかし、江戸時代の二七か村は、それぞれ独立した村であった。従って、隣村でも利害が反すれば深刻に対立した。一般的に、村と村との親しみは、道路に沿って結ばれる傾向が強い。皿木村は、犬成村や潤井戸村と江戸街道により結ばれ、刑部村の文書には市原郡の新巻村や大桶村がよく出てくる。また、相領といって、同じ地頭に属する村々は、距離的に離れていても親密で、舟木村八反目の市岡給の村役人たちは、同じ市岡給の埴生郡棚毛村・下小野田村、市原郡大桶村・吉沢(きちざわ)村の村役人たちとしばしば会合し、情報を交換している。水利を共用する村々も、一般的にいって親しく交際した。
 親しいといっても独立した村である。利害が反すれば訴訟沙汰にもなった。味庄村や舟木村は、国府関村や真名村と組んで上野村や中之台村と水争いをしているし、立鳥村と針ケ谷村との間にも水論が絶えなかった。
 一村が数人の給人により分割支配されている場合は、村内の関係も複雑であった。田代村水野給の百姓が大久保給の村役人にいやがらせをしても、水野給の村役人は、これをとめようとしなかった。江戸時代初期、給人の支配力が強いころは、給ごとのまとまりが強かったが、封建的支配体制がゆるんでくると惣村的結合が強くなってくる。更に、いくつかの村々が自然発生的に組合を結成し、互に助け合うようになった。明和五年(一七六八)の「拾壱ケ村申合之事」(8)に連署している徳増村・長富村・桜谷村・小榎本村・榎本村・岩川村・棚毛村・又留村・今泉村・元台村・千田村は、地理的に結びついた組合村である。また、文化元年(一八〇四)の「申合連書証文之叓」(9)の長柄山村・六地蔵村・皿木村・山之郷村・上野村・中野台村・道脇寺村・滝之口村・勝間村・葉地村も、盗人対策・飼差(えさし)対策などのため、自然と結びついた組合村であった。この場合、道脇寺は本村(ほんむら)山根村と別行動をとり、村を私称して台郷(だいごう)に加わっている。このことは、組合結成にあたり、地理的条件が基本的要素となっていることを示している。山根本村は下郷(しもごう)にあるので、台地上にある枝郷(えだごう)道脇寺とは、地理的結合関係を異にしていた。
 文政一〇年(一八二七)以降になると、関東取締出役によって、治安対策のため政治的組合村が設置された。その組合せは、必ずしも自然発生的組合村と一致するものでないが、組合村々の結合は次第に強くなっていく。天保九年(一八三八)山根村年番名主庄兵衛の書き残した「御巡見諸御用日記」(10)に次のような一文がある。
 天保九年、幕吏による私領・御料の巡見が行われた。そのための御用人足馬は、女馬・弱馬・弱人足ではならないことになっていた。高百石につき馬一匹を触当(ふれあ)てられた山根村外七か村は女馬・弱馬ばかりで、強い男馬をもっている者は少なかった。そこで、茂原村組合一二か村給々の惣代が、飯尾の伊助方に集まり種々協議したとき、次のような発言がなされている。「上十二ケ村之儀ハ往古(おうこ)より一村同様之間柄故、此度之儀も何村馬何匹当(あて)候共、女馬弱馬ニて勤候ハバ外村ニて助合相勤めさせ申すべし。猶、当廿三日頃御料御巡見御継立(おつぎたて)ニて、七ケ村へ当候共、人馬共十二ケ村ニて割合い相勤むべき趣ニ……後略」と相談がまとまった。上十二ケ村とは、山根・味庄・舟木・国府里・千代丸及び二宮の村々であるが、給や村を越えた連帯感は次第に高まっていった。しかし、組合村の結合も一枚岩でない。公用の人足馬の割当てや諸費用の賦課が不公平であるとして親村が訴えられこともある。茂原村と山根村の争いや、刑部村と初芝村の争いなどについては、第五節、村の争いの項で詳述したい。